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尊敬できる人がいない貴方へ

身近に尊敬できる人はいますか?親とか先生とか先輩とか、もっと年を経たら上司とかが選択肢に入ってくるでしょう。去年の私にはそんな人はいませんでした。

もっと昔はいたはずです。学校の先生とか、大学の研究室の教授とか、もちろん友だちにも尊敬する人はいました。架空の人間や、テレビの向こうのタレント、ちょっと上手いことを言うネットの見知らぬ誰かなんかも。しかし去年の私には、尊敬できる人がいなかったのです。

尊敬という心が自分の中に育まれたのは、中学生のころでした。私は反抗期真っ盛りで、大人に我儘を言い散らかしていました。しかし先生の苦悩を見逃さないようになって、あいつも自分と同じ人間なんだなと思うようになって、少しだけ我儘が治まりました。私に規律を押し付けるマシーンとしての大人が、等身大の人間として捉えられるようになったのです。幼く軽率な形の尊敬でした。

大学では少し自我が大きくなり、幼い尊敬の形を失いました。クソガキだったのでしょう。教授らは頭でっかちの変人の集まりだと決めつけていました。しかし試験や単位なんかで情けをかけてもらったり、私生活を明かされたりするうち、教授たちは人間になりました。私は接点のない大人たちをマシーン扱いする悪癖があるようです。

そして研究室に配属されました。教授に研究テーマを与えてもらって、自分なりに研究手法を確立していって、教授に研究報告を何度も行い指導してもらいました。教授は私の研究をすべて理解してはいませんでした。怠慢だと思いました。でもそれは、その研究にもっとも頻繁に接している私の特権なのであって、教授がすべて理解できないのは当然の摂理なのです。細かい事実は私しか知らない実験結果に表れているのですから。

それに気づいてから、私は教授の些細な偉大さに敏感になりました。私の研究は私の方が詳しいです。しかし行き詰ったとき、必ず教授は道をくれました。私はそれに、研究室の備品管理という形で恩返しをしました。尊敬できる人が、また見つかりました。

しかし大学を卒業してから、尊敬できる人がいなくなりました。自分のせいだと思いました。就活をサボった自覚があったのです。理系大学生という、就活に有利な立場に甘んじた当然の結果だと。同期は馬鹿だし上司も馬鹿だし、そこに落ち着いた私も同じく馬鹿なんじゃないかと落ち込みました。

それからしばらく、私の周りに尊敬できる人は現れませんでした。去年の事です。でも最近になって、嬉しいことに、再び周りの人が尊敬できるようになりました。素敵なところをまた少しづつ見出せるようになったのです。

先輩は私の知らない業務の知識を持っているし、上司は角の立たない部下のマネージメント法を経験的に習得しています。社長の将来ビジョンは明確です。同期も、まあそれなりに頑張っています。やっぱり馬鹿には見えますが。

私にとって尊敬とは、私より能力が上だとか、人間ができてるとか、私やほかの人を気遣ってくれるとか。究極を言えば、私にはないものを持っている人間に抱くものです。そういう人間は瑕疵すらいとおしい。自分にはないものを持っていても、やはり人間なのだと感じて、一層親しみを感じるのです。

しかし「人間なのだと感じる」とは見下げた物言いです。私は何を基準にして他人を人間認定しているのかわかりません。ある種の人間を機械のように感じて、そのうち何かがきっかけになって、その機械を人間の範疇に引き戻す。そうしてまた、尊敬できる部分を発見する。そんな傲慢なやり方でしか、私は尊敬を発見できません。それでも、私はそのやり方でいいのだと思い始めています。





Xでは「尊敬できる人が一人もいないような人間はまともではないから、関わらない方がいい」なんて言われていたりします。ちょうど去年にそれを見つけて、私は大ダメージを食らいました。まともじゃないと見抜かれてしまって、終わりだ、と絶望しました。

ですがまた、尊敬できる人が、いびつながらも見つかり始めています。今、尊敬できる人が一人もいないという人も、それはそれでいいのではないでしょうか。私のように絶望して、尊敬を発掘する力を失ったりしても、きっとそのうち力は取り戻せます。また誰かを尊敬できるようになります。環境を変えればそれは早まるかもしれません。

ですから、諦めないでください。「尊敬できる人が一人もいない人間なんて屑だ」と言われても、その言葉を素直に受け取ってはいけません。もう少しだけ辛抱してみて、新たな尊敬できる人と出会いましょう。

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