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学生という身分の窮屈さ

もものかんづめを読んでいてこんな一節があった。

もう、学生時代には戻りたくない。画一化された"学校"という組織の中で生きる時間は非常に苦痛である。学生の頃は「そういうもんだ」と思って過ごしてきたが、そういうもんの外に出た今、意味のない抑圧が多すぎると痛感する。

さくらももこ『もものかんづめ』

私も大学から社会人にかけて「学校」という枠組みからの解放を体感したから、彼女の気持ちはよくわかる。学校とは意味のない抑圧が多すぎるのだ。

まず、趣味嗜好は友達グループからの監査を受けなければならない。
もし趣味が世間から見て少しでも奇特なものならすぐに茶化されるし、渾名の由来にされることもあるし、そのうえ普通の趣味だとしてもグループ内で許されていなければ禁止に追い込まれる。今は趣味も多様になり監査は少し緩くなっただろうが、やはり周囲の目は気になることだろう。

恋愛はあらゆる耳目の注目と承認なしには成しえない。
だれだれが誰と付き合っているぞ。
どこまで進んだんだ?
どこが好きなんだ?
どこどこでお前たちを見かけたぞ。
あいつとあいつが付き合ってるのってキモくない?
言いたい放題言われるわけで、周りが納得する相手と関係のあり方でないと、やいのやいのと騒がれて気まずくなってしまう。

給食は生徒の体の成長を考慮せず、同じ時間で食べ終わることを強要する。
小学校なんかは特に顕著だ。食べるのが遅い子もいるし、まだ味覚が敏感で特定の食材がどうしても口にできない子もいるし、食事自体が苦手で食べるのが遅い子もいる。しかし、同じ時間に同じ量の同じ食事を摂らなくてはならない。身長も体重もバラバラなのに、その体格差を同じ枠の中にむりやり押し込める。

学校の制度的にも、その空気感的にも、そして伝統的にも、無意味な制約は大量にある。よほど社会人の方が気楽に思えてくる。

しかしこれらの制約に意味はないかもしれないが、全く役に立たないというわけではなかったりする。社会は理不尽であり、その社会を生き抜くために必要なエッセンスがこの無意味な制約に染み込んでいるのである。

例えば趣味嗜好の監査なんかは、これは学校特有の問題というより、集団が形成されると自然と発生してくる問題だ。集団はそれ自体が調整機能を持っており、集団内が居心地よくなるような力が発生する。その集団内で都合が悪かったり、あまり気にいられないような趣味を持っていると排斥されてしまうのだ。

そしてこの排斥力は集団が大きくなればなるほど顕著になり、その監査も厳しくなる。世間がいい顔をしない趣味というものがあるが、まさにその「世間」が大きな集団なのだ。それをあらかじめ学校というセーフティーネットの比較的充実した段階で体感しておくと、多少の免疫が得られはしないだろうか。

また、恋愛とは最終的には承認の問題に落ち着く。一番初めは相手同士の承認だが、そのあとは相手や自分の家族、友達、その周りの人間と承認の必要な範囲は広がっていく。そんなとき、あらかじめ恋愛と承認の関係を知っておけば、多少の対象法や心構えができるだろう。

それに耳目を集めるというのも自覚できる。なんせ自分自身もどこどこの誰々の恋愛事情が気になるという感情を持っているはずだからだ。自分が気になるのだから、周りも自分の恋愛関係が気になるに決まっていると気づきやすい。

食事に関して言えば、食事という行為は完全に自由なものではなく、ある程度強制されることもあるという事実を知っておける。手術後に病院食を強制されることもあれば、限られた時間内に栄養補給を済ませなければならないこともある。その事前学習と思えば少しばかりは役立ちそうだ。それに自分は食べるのが遅いのか早いのか、何が苦手なのかということを把握しておける。

しかし、こういった抑圧は子供にとっては全く無意味なものだし、大人にとっては当たり前すぎていちいち勉強するようなものでもない。

だからこそ、子供のころに無意識化に刷り込んでおくのが役立つかもしれないと思うのだ。こんなこと、言ったって理解できないし、身につくはずもない。多少の強制は子供の教育に必要ではないかと。

だが、それが虐待レベルになると話は別だ。とはいえどこからが虐待で、どこからが子供の未来を考えた強制になるのだろう。まさにそこが事態をややこしくさせているし、大人になってから「あれは意味のない抑圧だったな」と反省してしまうのだ。

少なくとも、社会にはそういった抑圧が存在することは確かだ。それを幼いうちに薄めた形で体感させるのは、どうだろう、そこまで悪い方法とは言えないと思う。

私は、今のところそう思っている。意見は変わるかもしれない。

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