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note記事を書く理由

思えばここで記事を粗製濫造して半年ほど経ったが、記事を書く理由を私は一度も語ったことがない。そういう理由は折に触れて再認識する必要があると思っているので、今日はそれをしてみる。

事の始まりは大学院2年の春、研究が軌道に乗って自由時間と自尊心が膨れ上がっていた頃である。私はある作品の二次創作をしていた。研究の合間にカビ臭い自室にこもって、ネットの片隅に放流するささやかな小説を書いていた。

私はキャラクターの心情について苦渋を舐めながら掘り下げていた。考察を読み、twitterの同士たちの語り合いを傍聴し、自分なりの答えをまとめ、それを物語という形にまとめあげていたのだ。

最初は順調だった。物語を書いた経験のない私でもここまで書けるのかと興奮した。カタカタとキーボードを弾いて駄文を量産しまくり、最初は元となった作品の一場面の再解釈を、次に作品のその後の想像を、最後にはifストーリーを綴った。

しかし小説を書いてしばらくすると弾けるように不満が噴出した。語彙が足りない、文章構成能力が無い、文体が気に入らない、もそもそキャラクターの掘り下げが足らなくて話に説得力が出ていない。だんだんと自分の作品に自信が持てなくなっていた。

若者のはじめての挑戦なんてそんなものだろう。本もそれほど読んでこなかった手前、実力不足に陥るのは明白だった。しかし私は私なりに真剣に悩んだのだ。夢にまで出た。なにより、これは大学入って以来久しぶりの、他者の介在しない自発的な選択だった。

しかし実力というのは一朝一夕に身につくものではない。しばらく時間をおいてから書いてみたり、前よりも綿密にプロットを作ってみたりと、あれこれ試行錯誤してみた。

そもそも私の書きたい物語とは何だろう、と思索にもふけってみた。できるだけ元となった作品から解釈が外れないようにしたいという信念はあったが、それはそれとして、元の作品の歴史をガラッと改変して新しい展望を示すことでよりキャラクターを深く理解したいという欲求もあった。

それにオリジナリティに対する焦りもあった。二次創作より一次創作の方がはるかに難しく立派な創作活動だ、という話を耳にしたことはないだろうか。創作をかじったことがあるのなら少なからず耳が痛い話だろう。私の創作は元の作品の解釈を深める方向性を徹底して貫いていたが、それは一次創作にしかないオリジナリティとはかけ離れている。自分だけの作品が欲しい。そう思い始めた。

それで自分で考えた小説も書いてみた。しかし、キャラクター設定とか世界観構築とか、そういう新規に物語を始めるならついてまわる部分が私にはどうしても苦痛だった。苦手というのもあるかもしれないが、何よりやる気が起こらなかった。

なるほどだから異世界転生モノが流行ったのかと邪推もした。あれは世界観とキャラクター設定がほとんど使いまわしで、新しく想像する必要がほとんどない。ちょっとした捻りをつけて個性を出せばジャンルとしては十分成り立つから、牛丼で言えばトッピングをネギにするかチーズにするかみたいな手軽な選択でスタートを切れるのだ。肉を牛から豚にすれば大きな変化が生まれるかもしれないが、それもまた、丼という形態と土台のご飯は共通している。やはり初めが楽だ。

そして悟った。私には土台がなさすぎる。丼とご飯を文章そのものに置き換えてみれば、それは文章全体をまとめ上げる力と、文量を書き出す力ではないだろうか。基礎体力のようなものだ。それは時間をかけてコツコツと積み上げなければ向上していかず、急に執筆に目覚めて文章を濫造するだけでは身につかない。

そこでこうして記事を書いているのだ。週に何度か記事を出し続ければ、一年経てば本一冊分くらいにはなるだろうと踏んでいる。小説の単行本は一冊12万文字ほどだと言われており、私の記事は一つ1000~2000文字ほどだ。3日に一度くらいのペースで記事を出し続ければ、一年で12万文字くらいにはなるだろう。

私の二次創作の小説群は、すべて合わせれば14万文字ほど。これもまた一冊の短編集ができる分量だ。二次創作で単行本一冊分、noteの記事で単行本一冊分、と積み上げていけば、基礎体力がついて何かしら見えてくるのではないか。私はそんな儚い希望を抱いて記事を書いているのだ。何も見えてこなくても、少なくとも目標達成という結果はついてくる。

とりあえずそこまで進めてから後のことは考えようと今のところは思っている。ただそれだけが、私がこうしてnote記事を書く理由だ。


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