パンになったんだよな
この季節になると思い出す存在がいる。
玄関先に突然あらわれた、モノクロの野良猫。脚の先が白くて、靴下をはいているようだった。
《くつした》は、毎日うちの前にいた。
猫にはあまりなじみのない生活を送ってきたため、「あ、猫」くらいにしか思っていなかったのだが、こうも居座られると情がわく。
猫のあやし方を知らないから、必要以上に距離は縮めなかった。
毎日お互いの存在を確認して、たまにかつおぶしを差し入れする程度。1年はそんな日が続いただろうか。
だが、2年前の大雨の日を境に、ぱたりと来なくなってしまった。
いいエサ場を見つけたのかもしれないし、かつおぶししかくれないニンゲンに愛想を尽かしたのかもしれない。どこかでのらりくらりと暮らしていてくれればいい。
悲しいことは考えない。
でも「いつでも捜しているよ/どっかに君の姿を」と、名曲の一節が浮かぶ。
あじさいの陰、くちなしの根元、こんなとこにいそうなのに。
と思っていたら、桜木町ならぬ横浜のパン屋で思いがけぬ再会をした。
2020年6月にオープンした《TOM CAT BAKERY》のロゴは、顔がハチワレなのをのぞけば、ほぼ《くつした》。
2022年6月現在、国内には横浜の1店舗のみ。
もとは1987年ニューヨーク発祥のベーカリーだそうだ。
2通りの行き方があるが、片方は見落としそうな小さな改札直結、もう片方はメイン通路の突きあたりをU字に旋回した先にあるので、ここを目的地としないかぎりは見落としてしまうと思う。
J字の店内には、総菜パン、菓子パン、ベーグルサンド、プレッツェル、バゲット、フォカッチャ、クロワッサンなどがところせましと並ぶ。
カラフルなドーナツや、みずみずしい果物の乗ったデニッシュがそこに彩りを添える。ベーグルサンドはいわゆる「萌え断」で見目麗しい。冷蔵ケースに並ぶサヴァランもおいしそうだ。
ニューヨーク発祥のパン屋と言えど、日本人向けにカスタマイズされており、あんぱんも並んでいた。
こしあんとつぶあん両方そろっているから、どちらの派閥でも安心。
品ぞろえはかなり豊富なのではないだろうか。
季節の品も並ぶ中、全制覇するには相当な時間がかかりそうだ。
10席はあるカウンター式のイートイン席は、コンセントも設置されているので利便性が高い。ただ、通路に背を向けるので、背後をとられたくないひとは落ち着かないかもしれない。
メイン商品のひとつ、《ダンボ・フォカッチャ》がお気に入りである。
フォカッチャは「平たいパン」を意味するらしいが、ぜんぜん平たくない。その厚み、およそ10㎝。
これだけ厚くても、ふわっふわなのでとても軽い。まるで子猫のよう。
食べたいパンは数あれど、持ちたいパンはこれが初めてだ。
会計時、持参した袋にパンを詰めていると、店員さんがこれだけスッ・・・とよける。
そして、ひととおり詰め終わったのを見はからって「大変やわらかく潰れやすいので、気をつけてお持ち帰りください」と大切そうに手渡してくれる。
天面はチーズの塩味がほどよく効いているので、何もつけなくてもふわっふわモチモチの食感と、小麦の香りを楽しめる。生食だとかなりの弾力。
焼くと、チーズの香ばしさが強調され、モチモチ感はふんわり感に変わる。まだ口が開ききらない朝は、焼いた方が食べやすいと思う。
生食を「むゥオッっ・・・ゥッ・・・っっッちりィィ」とするなら、焼食は「ふわもっちり」くらいだ。
とにかく分厚いので、カスタマイズしてサンドイッチも作れそう。シンプルだけに、いろいろ楽しめる。
このフォカッチャの上に、ハッシュドポテトやソーセージ、コーンがのった具沢山の惣菜パンもあった。こちらのフォカッチャは、「平たい」の概念が守られている。
季節によりトッピングは変わるらしく、このほかにも数種類がもりもり並んでいた。
クリームがとろりとかかった《キャロットケーキ》は、ニンジンの青くささが一切ない。じんわりとした甘みには、どことなく和すら感じた。
本体もしっとりしているのに、天面のチーズ風味クリームがさらに食感をなめらかにしてくれる。先日行ったら姿を消していたので、期間限定商品だったのかもしれない。
《オレンジショコラブレッド》は、焼くとチョコチップとチョコダイスがフォンダンショコラのようにとろりと溶ける。
オレンジピールの華やかでさわやかな酸味とは、お互いを高め、活かしあう理想的な関係性。
約8㎝角のハーフサイズを、4分割でぺろりと食べてしまった。
横浜には、高島屋内に有名ベーカリー約40軒が一堂に会す《ベーカリースクエア》という最強のパンスポットがある。駅に隣接する商業施設の中には、ほかにもいくつものパン屋がある。
そんな中、この《TOM CAT BAKERY》は前述の通り、駅近ながら見落としがちなところにある。
店のロゴに《くつした》によく似た猫が鎮座していなければ、わたしの視界に入ることはなかったかもしれない。
猫の《くつした》はいなくなってしまったけれど、パン屋に姿を変えて、何気ない毎日を小麦色に染めてくれている。
このパン屋に出逢えたのは、《くつした》の逆餞別だと思いたい。
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