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映画『日本橋』(1956)露地の細道、駒下駄で


こんちゃ、唐崎夜雨です。
今夜の映画は泉鏡花原作の『日本橋〔にほんばし〕』(1956)。とうに過ぎてしまいましたが、春、ひな祭りのころになると見たくなる映画。
監督は『犬神家の一族』などで知られる市川崑。脚本は市川崑監督夫人でもある和田夏十。カラー映画。

映画『日本橋』は、淡島千景、山本富士子、若尾文子と三女優が芸者となりて妍を競う逸品。古今東西の女優でいちばん好きな女優は、淡島千景〔あわしま ちかげ〕。

淡島千景は宝塚歌劇の出身。1950年松竹から『てんやわんや』で映画デビュー、のちにフリーとなって各社の作品に出演。とくに東宝での『夫婦善哉』や『駅前』シリーズはじめ森繁久彌さんとのコンビによるコメディエンヌぶりが魅力的。
『日本橋』では、煮え切らないような男にむかって「じれったいねぇ」と言い放つ、婀娜な伝法な芸者を演じている。

あらすじ

ひな祭りのあくる夜、日本橋の芸者・稲葉家お孝(淡島千景)は一石橋のたもとで警官に尋問されている葛木晋三(品川隆二)と出会い、彼の窮地を救う。葛木は芸者清葉(山本富士子)に岡惚れだが叶わず独り帰るところであった。清葉には旦那がいて子供もいる。葛木の思いを受けることはできない。清葉に振られた葛木に、お孝が惚れる。一方、かつてお孝に振られた五十嵐伝吉こと赤熊(柳永二郎)は執念深くお孝をつけまわしていた。

露地の細道、駒下駄で

映画の冒頭するするっと幕が上がる。映画『日本橋』は舞台のような趣がある。例えば屋内、セットは映画というより舞台のよう。全体的に色彩が抑制されている。

屋外も、芸者の物語ゆえか、昼より夜が多い。
夜半、お孝と葛木が出会う一石橋は大きなセットが組まれ本物の市電が通り抜けるほど立派なものだが、かきわりのような遠景で暗い。

泉鏡花の小説『日本橋』が出版されたのが大正三年(1914)。のちに鏡花自身で戯曲化してもいる。

葛木や芸者たちは、夜でも提灯なんぞ下げて歩いていない。帝都の日本橋は往時それなりの街灯はあるのだろう。だが、そうはいっても今とは比べ物にならないほど、闇が広がっているはずである。

背景の色彩を抑え、あるいは陰影をつけることで、演者に目が行く。ことに芸者は派手な着物を着ているので、華やかさが際立つ。

もともと泉鏡花の作品はリアリティを求められる映画には向いていないように思う。いくらか抽象的でも成立する演劇のほうがふさわしいと思っている。

それは映画の本質が写真であって、言語では無いからだと思う。無声映画が出発点であり、活動写真と呼んでいたことからもわかるように映像で説明できるなら言語のセリフは省ける。一方で舞台演劇は言語の比重が大きい。そして泉鏡花の魅力はその言葉にある。

盛の牡丹ぼたん妙齢としごろながら、島田髷しまだもつれに影が映さす……肩揚をったばかりらしい、姿も大柄に見えるほど、荒いかすりの、いささか身幅も広いのに、黒繻子くろじゅすの襟の掛った縞御召しまおめしの一枚着、友染ゆうぜん前垂まえだれ同一おんなじで青い帯。緋鹿子ひがのこ背負上しょいあげした、それしゃと見えるが仇気あどけない娘風俗ふう、つい近所か、日傘もさず、可愛い素足に台所穿ばきを引掛けたのが、紅と浅黄で羽を彩るあめの鳥と、打切ぶっきり飴の紙袋を両の手に、お馴染なじみ親仁おやじの店。

泉鏡花『日本橋』

ここで「それしゃと見えるが」の「それしゃ」は芸者のこと。衣装に目が行くのはなるほど鏡花らしくもあるか。

日向に悩む花もある

冒頭で幽霊話が紹介される。幽霊が出てきて襲うの祟るのという話ではない。ただ映画『日本橋』には、姿を見せない二人の女性が物語の背景にある。女性の哀しみがその影からにじんでくる。

ひとりは幽霊になって出てくるという芸者お若。
お孝は元の住居が手狭になったので、あたらしく露地の奥の家に引っ越した。お孝の稲葉屋には抱えの子が五人六人はいるだろうか。稲葉屋の女主人でもあるが「おかみさん」ではなく、皆「ねぇさん」と呼ぶ。

お孝の越した家の先の住人が芸者のお若といい非業の死を遂げている。亡くなった芸者の幽霊が出るという噂のある家にお孝は移り住んだわけだが、お若さんにあやかりたいと言ってお孝は周囲を驚かせる。

もう一人は行方不明の葛木の姉。弟を養うために身を売った。
葛木は清葉に姉の面影を重ねている。だが清葉には旦那がいる、子供もいる。旦那がいるのは結婚しているという意味ではない。身請けしてくれたパトロンのこと。

春で、朧で、ご縁日

映画『日本橋』のいちばんの見どころは三女優の競演だろう。とくに物語上、淡島千景と山本富士子が際立つ。

淡島千景は稲葉屋のお孝という芸者。冒頭、後ろ姿でフレームインしたかと思えば、サッと虫を払うように振り向く。これだけで、堕ちる。

身のこなしといいますか、立ち居振る舞い所作がみごとなほどに美しく、江戸の名残りの日本橋の粋な芸者に見えてくる。

燗冷ましの酒をコップで飲む場がある。淡島千景の左後ろに長火鉢がある。長火鉢へ向かうなら左へちょいと体をひねればいいのだが、そうはしない。座ったまま右へ体をくるっと回して長火鉢に向かう。これだと芸者の着物の長い裾が広がる。演劇的だが好きなシーン。また堕ちる。

山本富士子は瀧の家の清葉という芸者。お孝は清葉にライバル心をむき出しにするが、清葉のほうはお孝を慕えど敵対心はない。

先にも書いたが清葉には旦那がいる。身請けして家を与えてくれて、平たく言えばお妾さんだが、母と子どもと三人で暮らしている。
ただし、呼ばれれば座敷にも出る。芸者を引退したわけではない。勝気なお孝に対して穏健な清葉だが、強欲そうなお孝の伯母さんという老女に対してはキッパリとした物言いでしかりつける。

若尾文子はお孝の稲葉屋に籍を置くお千世。まだ子どものように愛らしい。着物も肩あげされているように見える。当時の若尾文子はそんな子供でもないと思うのだが、まことに可愛らしく見える。

話変わるが、むかし映画好きの友人がとあるバーへ行ったら、モニターに『日本橋』が流されていたという。もちろん音量はゼロで映像だけなのだが、とてもよかったと教えてくれた。

それほどに市川崑の『日本橋』は日本画的でもある。雪に覆われた一石橋を赤い傘さしてゆく清葉の姿は、日本画にありそうだ。上村松園かしら小村雪岱かしら。


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