Nogeの " リヨン "。 ひと坪バー へ、今夜も、、、

今夜も、来てしまった。
「こんばんわ、、」
マスターは、手元の作業を続けながら、ふいっと目をあげる。
「らっしゃい、、」
入口すぐそばの、年期の入ったハイチェアの位置をちょっと整えて、足を回しこんで座る。
「ドライマティーニ、、、」と注文する。
このバーでは、これでよいのだ。

昭和の時代からある、小さな飲み屋が集まった街の小さなバーだ。
街路に面した間口は、2mあるのだろうか、奥行も同じくらいだ。
ガラスの引戸の屋内側にハイチェアが5つ並び、幅の狭いカウンターが間口の幅分のびる。
それを越えれば、マスターの小さな工房である。
今日は先客はいないが、混んでいれば、隣の客と肘がよくふれる。
真冬の夜だから、コート着たままがちょうどいい。

マスターはもみ上げから顎までぐるっと細めの髭をのばし、歳は三十代と思うが、よくわからない。
目が少々タレ目で、やさしい。
もともと無口なのだろうか、声をかけても、必要なことしか発しない。
でも、手元を動かしながら、ときどき 不意にこちらの顔をみてくる。
ただの観察なのか、何かを読もうとしているのか、、、

初めて来たきっかけは、のんべい仲間の酒豪 T女史の紹介だった。
「T女史は、来てる ?」
「最近は、ないですね、、」
「そう、、、」
今日は一番乗りでもあるし、静かに飲めそうだ。
この店は、遅い時間に混む店だ。
細いカウンターにそっとコースターが敷かれ、
三角のカクテルグラスがおかれる。
ミキシンググラスから、そそっと、注がれる。
二度ふって、注ぎ終わると、レモンピールが、ふられる。
仕上げにオリーブが添えられる。
私は、「ありがとう、、」と小さくつぶやく。
マスターは、微妙にうなずくようなしぐさを見せる。
おもむろに、カクテルグラスに指をそえて持ち上げ、唇のそばまで近づける。
神経を鼻孔に集中し、顔を少し左右にふる。
レモンピールが利いたジンの香りに、ほのかに遠い土地のにおいが染み込んでいるようだ。
たまらない。クイッとひとくち口へ含み、一瞬、感触を確かめ、ゴクリと飲み込む。
胸のあたりが熱くなり、それが背筋をかけ上がって、頭の全体へ広がる。
全てをわすれる至福の時である。
今夜は最高。

しばらく、ホッとしていると、店の前にタクシーが止まり、ドアがしまる音がする。すぐ引き戸が開いて、
赤いチェックのコートの女性が、入ってくる。
「よかったわ、入れて、、、マスターこんばんわ、、、」
マスターは、グラスを磨く手元を休めず、
「ハイ、、」と一言応じる。
女性は、体を回しながらハイチェアに座ると、
私のほうをチラッとみるなり、カクテルグラスに目をうつす。
「マスター。私もいつものマティーニ、お願いね」
常連さんのようだ。

手指がさびしく感じて、グラスをちょっと持ち上げてみる。
ゆれるマティーニに、ほんのり赤く色づく空気の流れをかんじる。
ひとくち、湿らすほどに飲み込む。

彼女は、ブラウンレッドに染めた柔らかそうな髪を、額から耳のあたりに指先を動かし、ととのえる。
そして、ひとり納得するかのようなしぐさを見せてから、
ふいに、わたしのほうに顔をむける。
「マティーニお好きですの、、」
「あっ、ええ、、」と応じる。
「よくいらっしゃいますの、、」
「ええ、まあ。気が向くと寄せてもらってます、、」
自分ながら、もうちょっと気が利いたもの言いはできないのか、と思う。

カクテルをつくるステアの音がひびいた後、彼女の目の前に置かれたカクテルグラスに、マティーニが注がれる。
彼女は、パールピンクのマニュキアの指先を揃えて、グラスを持ち上げる。そっと一口含む。
その瞬間、オリーブを映すグラスと赤いルージュの対照がなまめかしい。
時が止まった一瞬のアートだ。
しばらく、静かな極上のバータイムがつづく。

彼女は、今夜の雪の予報が当たるかどうか、マスターとひとことふたこと言い交わしてから、わたしに話をふってくる。
「どう思われます、、」
「冷えてきましたから、降るかも知れませんね、、」
「そうですわね、、」
マティーニは、冬の夜がにあうかもしれない。
「わたし、ときどき来ますのよ、マスターのつくるマティーニを目指して、、」と言い、マスターの顔に視線を移す。
マスターは、無表情で、手元を動かしつづける。
彼女は、カクテルグラスをもちあげ、飲み干す。
「マティーニのご縁で、、」
彼女は、私の目を探るように、のぞきこみ、
「、、また、お会いできそうですわね。楽しみですわ」
と言うなり、
体を回して、向きを変え、そそくさと店をでていく。
私の方は、「そうですね、、」と小さくつぶやくが、おいつけない。
マスターの表情は変わらない。
店内の空気が、色を失い、さめてくる。
残りのマティーニを口に含み、喉に流してやる。
なにかを消失したよなが味が、ちょうど良い時間だといってるようだ。
「マスター、じゃあまたくるよ、、」

外の空気は、冷たい。
大通りの歩道へ出る。
歩きながらコートの襟を立て直する。
行き交う人の流れにまじりながら、駅へ向かう。
ほろ酔いの天国のなかで、今夜も、いい酒を頂いた、と思った。
ふと、瞬間、心なしか揺れる視野の一角を、以前見た映画「マトリックス」の "赤いドレスの女" の影が、通り過ぎていったように思った。


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