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【連載ブックレビュー】堀川惠子著『教誨師』 PART.3 浄土真宗のこと(最終回)

―君にこれを受け止める覚悟はあるか
そんな声が聞こえてきそうな、普相さんからの遺言であり、死刑囚たちの遺言でもある

タイトル:教誨師
著者名:堀川惠子
出版社:講談社文庫
発行年月日:2018/4/13

「この話は、わしが死んでから世に出して下さいの」
受刑者の徳性を涵養する任を負う宗教者“教誨師”。教誨師を長く務めた浄土真宗の僧侶・渡邉普相さんによって、死刑囚との様々なエピソードや死刑執行に立ち会う場面が語られる。やるせない思いに駆られながらも、長い旅路を終えたような、どこか清々しい読後感に誘われる力作。

■PART.3の内容

PART.2では、本書の最も重要かつ需要のある部分について触れた。ただ、読む人によっては、わかりにくさを感じる部分があると思われる。それは、浄土真宗の教義についてである。

主人公である普相さんが、浄土真宗の僧侶なのであるから、当然と言ってしまえばそれまでのこと。だが、仏教や浄土真宗に馴染みのない人にとっては、聞き慣れない言葉がたくさん出てくる。PART.2に書いた死刑囚のことを知りたいという人には、少し負担に感じるのではないかと思う。

PART.1で触れた武田鉄矢さんは親鸞好きを何度も公言している。また、武田さんのお母さんが浄土真宗に篤信であったという話を人づてに聞いたことがある。

♪今も~ 聞こえる~ あの~ おふくろの声~

もちろん、名曲「母に捧げるバラード」のモデルになった人である。最期の最期まで「お母さん」と絶叫し続けた、横田和男(仮名)には決して聴かせてはならない曲である。そんな下地もあって、武田さんはそれほど抵抗感なく読み進めることが出来たのであろう。

著者である堀川さんへ普相さんが浄土真宗の教えについても、丁寧に説明していたのであろう。他の本と比較すれば本書は丁寧に記載されている。それでもなお、説明不足に感じられる点や明らかな誤りもある。

本書をスムーズに読み進めるために必要な点を記載するとともに、ようやく感想らしきものにも触れていきたいと思う。一冊の本にPART.3まで書くのは、もはやコンテンツとして破綻しているとの誹りを受けても仕方がない。

それでも、書かずにはいられないほど、心揺さぶられる本である。

■宗派名について

細かい話で申し上げにくいが、本派浄土真宗本願寺派との記載が何度か見受けられた。「浄土真宗本願寺派」が正式名称であり、本派というのは略称である。宗派内で話すときに「本派では…」と使用したり、他宗派の僧侶との集まりなどで「ウチは本派なんです」と使用されたりするらしい。

同じく、浄土真宗大谷派との記載も見受けられる。これもよくある誤用で正式名称は「真宗大谷派」である。本書が素晴らしい作品であることに違いはない。しかしながら、それがゆえに信憑性を帯びるため敢えて記載した。

なぜこのような誤用が生じているのか。その責任をすべて著者に背負わせるつもりはない。講談社の校閲にも問題ありだと言わざるを得ない。

■とあるnote

本書を取り上げたとあるnoteに、「仏像の下にウイスキーを隠し持つほどになってしまう」と書いている人を見つけてしまった。本書にそのような記載は一切ない。普相さんがそんなことをするとは到底思えない。先述の横田和男が執行された後の場面である。

執行の立ち会いをした日はいつもするように、家族に顔も合わせぬまま一目散に本堂へと向かった。阿弥陀様の前に座り込み、上半身を床に投げだして同じ言葉を繰り返した。
「阿弥陀様、わっしは今日も可哀想なことをしてしまいました、可哀想なことを、可哀想なことをしましたぜ……」

筆者も記載にはよくよく気をつけようと、普相さんが受刑者と対峙してきた姿勢を見習いつつ自らを戒めたい。

■『歎異抄』について

本書には『歎異抄』にまつわる記載が何度も出てくる。山本勝美(仮名)を変えたのも『歎異抄』であった。そのきっかけとなったフレーズ「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。」が最も有名である。悪人正機の言葉とともに、歴史教科書にも記載されている。

『歎異抄』は18条からなり、先述の有名なフレーズは第3条に記載がある。親鸞の弟子・唯円の書と言われる。親鸞の教えだとする異義(間違った教え)が、広がっていることを歎いて書かれた。「親鸞聖人はこのように仰っていましたよ」というのが、『歎異抄』の基本スタイル。

唯円という人は大変な名文家である。一文一文の切れ味は鋭く、それでいて文章全体の構成も見事。それは、O・ヘンリー短編集を読んでいるかのようでもある。一方、親鸞という人は、あまり自分語りをしない。

浄土真宗の根本“教典”とも言える、親鸞の主著『顕浄土真実教行証文類(通称:教行信証)』は、そのほとんどが引用によって構成されている。山本が執行に立ち会う人々へ手渡した『正信念仏偈』も、この教行信証の一節である。長編かつ難解な上に、引用であるため人間親鸞が見えにくい。親鸞の横顔を知るために、『歎異抄』は不可欠な書となっているそうである。

ところが、唯円が名文家であるがゆえに問題が生じる。笑いの世界に「フリ」と「オチ」なる言葉がある。唯円はあくまで「フリ」として使っているにも関わらず、そこを切り取られて、その言葉が「オチ」だと捉えられてしまう。また、逆に「オチ」だけでは本当の理解にたどり着かないものもある。先述の第3条は、「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。」とオチから話が始まる。いずれにせよ、名文家の切れ味と凄みを帯びた言葉は、どこを切り取っても恰好がついてしまうのである。

間違った教えを正すための書であるにも関わらず、それが新たな異義を生んでいく。そのため、長らく禁書に近い扱いを受けてきた。現代でも一般書に引用される際、気になる切り取り方をされているケースが見受けられる。その点、本書では『歎異抄』を丁寧に引用および解説がなされている。本書を読み進める際、引用の長さに少ししんどさを感じるが、そういった背景を理解すると、スムーズに読み進めることができた。

もちろん、堀川さんが長く引用されたのは、普相さんの丁寧な説明があったからであろう。そして、何より『歎異抄』への理解が受刑者の心情を理解する上で重要であると堀川さんが判断したからであろう。

いよいよ、執行が少しずつ現実味を帯びてゆくとき、最も熱心であった山本がこんなことを普相さんへ言ったことがある。

「先生……。私は最近、これから自分が死ぬということと、『歎異抄』の第九章との関係について色々と考え、悩んでおります」

浄土真宗の根本“経典”である、浄土三部経(『仏説無量寿経』・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』)の意訳はもちろん、他宗派の本まで読みこなす人である。当然と言えば当然であるが、『歎異抄』第9条を持ち出してくるあたり、改めて熱心であったことを感じさせる。

『歎異抄』と言えば、やはり先述の第3条があまりに有名である。しかし、浄土真宗の法話をよく聞いている人や僧侶、いわゆる玄人好みするのは第9条だと言われる。それは第9条には、阿弥陀仏による徹底した救いの姿と悪人正機をより先鋭化させた親鸞の感動的な言葉が並び、弟子である唯円との関係性において、その人柄がもっともよく現れているからである。

堀川さんは丁寧に引用される場面が多いが、第9条については「フリ」の部分だけを引用して、阿弥陀仏による救いの部分についてはほとんど引用していない。(別の場面、竹内景助とのやりとりに第9条冒頭が少し出てくるが)いわば、「前フリ」と「オチ」で阿弥陀仏による救いを説き、堀川さんが引用された箇所をサンドイッチしている。引用された箇所だけであると、第9条の受け止め方はかなり違ってくる。

浄土三部経の意訳までやってのけてしまうほどの彼が、『歎異抄』を読みこなせないはずはない。阿弥陀仏による救いの部分をどのように捉えていたのか。普相さんが阿弥陀仏による救いをどのように説明したのか。この場面でそれに関する記載はない。

もしかすると、唯円は破門すら覚悟の上で師匠である親鸞へタブーに近い質問を投げかけている。それに対して、親鸞はよくぞ聞いてくれたと受けるのである。しかも、同じ心であるとまで言ってくれるのである。第9条が玄人好みする理由の一端でもある。

ただ、真剣でありながらも、信頼とぬくもりを感じさせる親鸞・唯円の師弟による対峙は、やはり普相さんと山本の関係を彷彿とさせるものがある。

■四十九日

2012年12月1日の午後8時過ぎに普相さんは亡くなる。「終章 四十九日の雪」は、堀川さんの美しくも静謐な筆致が見事に冴えわたる。そこに、下手な水は差したくないが、どうしても気になる記載がある。

四十九日は、故人の霊が仏になり天へとのぼっていく区切りの時であるという。多くの死刑囚を見送った渡邉もまた、向こうの世界へと旅立った。

宗派にもよるが、仏教では霊という言葉はあまり用いられない。特に浄土真宗では、霊という言葉を用いることは一切ないと聞く。往生即成仏を説くからである。浄土真宗では、この世で悟りを開く(成仏する)ことは出来ないという立場であるという。

なぜなら、人間はこの世で煩悩を捨て切ることが出来ないと考えるからである。煩悩を捨て切ることが出来ないため、仏になるための学びと実践が完成できない。阿弥陀仏から信心をいただいた者は、肉体滅すると阿弥陀仏の浄土へ往生する。煩悩の生じない浄土において、速やかに仏になるための学びと実践を完成させて仏になるというのが、往生即成仏という考え方なのだと聞く。

よって、亡くなってから霊となって彷徨うこともなければ、四十九日が天へのぼる区切りの時でもない。亡くなったその時が、浄土へ往生する時なのであるという。

ただ、堀川さんのこの記載は、普相さんが確かに亡くなったのだということを改めて痛感させる。普相さんが生きていたら、丁寧にちゃんと説明されていただろうと思うからだ。

■独自評価

◇文章の上手さ★★★★★
静謐な筆致で冗長さはなく、それでいて匂い立つ書きぶりは見事というほかない。言葉を選び抜いた著者の真摯とセンスが息をのむ迫力を醸し出す。
◇表現の美しさ★★★★★
本書の性質上、厳しい場面が多くなることは仕方がない。著者が綴る文章の美しさだけが、読み進める力を与えてくれる。
◇情報の豊富さ★★★★★
心理描写、事実関係、歴史的背景などがバランス良く記載されている。
◇内容の面白さ★★★★★
取り扱っている内容が内容だけに、面白いという表現は似つかわしくないが、間違いなく良書である。
◇全体の難しさ★★★★☆
やはり浄土真宗の教義部分がネックになると思われる。

■総まとめ

何度、読み返してみても、鼻の奥がツーンとなってしまう場面があまりにも多い。

机の下には、去年からこの部屋に持ち込むようになった新型のテープレコーダーが置かれている。持ち運びできるテープレコーダーは珍しいものだが、大きさは手提げ鞄ほどでズッシリ重く、実際に持ち歩くには一苦労の代物だった。しかし、これがなくては始まらない。オルガンの伴奏にあわせて腹の底から声を出して歌うのが、ここを訪れる者たちの一番の楽しみなのだから。

浄土真宗で仏教讃歌と呼ばれているものである。筆者も聞いたことがある。仏教讃歌を好んでいる方も多くいらっしゃる。あくまで個人的感想だが、あまり受け容れることが出来なかった。有り体に申し上げれば、いかにも宗教チックなのである。

だからこそ、仏教讃歌を一番の楽しみにしている受刑者の姿は、胸に迫り来るものがあまりある。晩酌をやりながら、iPhoneのミュージックをいじりつつ、今日はマイルスだコルトレーンだ、いやいや「やっぱジェリー・マリガンのNIGHT LIGHTSっしょ」とやっている自分である。

死刑賛成、死刑反対、被害者および被害者家族、加害者および加害者家族、刑務官および刑務官家族、宗教者など、実に様々な立場から、様々な捉え方で読むことができる。

立場や見解には色々あると思う。しかし、死刑囚と呼ばれる人々から、一度、死刑囚という肩書きにカッコ閉じをして考えてみたい。ひたすら浄土真宗の教えに打ち込んだ山本勝美(仮名)、家族を案じながらお経や論語の書写に打ち込んだ竹内景助、不器用ながらも字の習得に打ち込んだ木内三郎(仮名)、母の愛を請い続けた横田和男(仮名)、自らの内に潜む悪魔と対峙し続けた白木雄一(仮名)など、そのひたむきな生き方に嘘はない。また、死刑囚が収監される拘置所は、浄土とまでは言わないまでも、ある意味において純化された空間でもあると感じた。

いずれ必ず自らの「死」に向き合うことになる私たちひとりひとりに投げかけられた問い

そのひたむきさの中に、堀川さんからの問いに対する答えの一部があり、生きることを考える上で大切なものが詰まっているように思えてならない。普相さんや堀川さんの足下にも及ばないが、結構な長旅になってしまったなと思いつつ、悔いる気持ちは微塵もない。(おわり)

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