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【司馬さんとの旅日記】『この国のかたち』「4.“統帥権”の無限性」

―司馬さんの挫折感が滲む“昭和”という時代

司馬さんの旅に勝手ながら随伴して、その世界にひたすら耽ることを目論む【司馬さんとの旅日記】

 ──あんな時代は日本ではない。
 と、理不尽なことを、灰皿でも 叩きつけるようにして叫びたい衝動が私にある。日本史のいかなる時代ともちがうのである。

静謐でドライな筆致の司馬さんらしからぬ書きぶりである。

「司馬さんには、昭和の戦争時代が書けませんね」
 と、いつだったか、丸谷才一氏にいわれたことがある。
 なさけないが、うなずくしか仕様がない。

“司馬さんはついに昭和が書けなかった”なんて話は、テレビや本で他の作家や関係者が言っているのを、もう何度も聞いている。司馬さんのファンにとっては、あまりに有名なエピソードである。

引く手あまたの歴史学者・磯田道史さんも、『「司馬遼太郎」で学ぶ日本史』において、司馬さんの様々な作品を取り上げながら、司馬さんにとっての昭和や戦争を丁寧に論証されている。

ただ、司馬さんご本人の語りとして、感慨深いものがある。しかも、ご本人の言葉としてではなく、「丸谷才一氏にいわれた」と敢えて間接表現にしているところに、むしろリアリティーを感じる。

 私事をいうと、私は、ソ連の参戦が早ければ、その当時、満洲とよばれた中国東北地方の国境の野で、ソ連製の徹甲弾で戦車を 串刺しにされて死んでいたはずである。

いつもの司馬さんなら、「私事をいうと、私は、」などという表現は決して用いないと思う。この司馬さんらしからぬ悪文ぶりから、七転八倒して書いていらっしゃる心の乱れが伝わってくる。この後も、司馬さん自身が経験された戦争体験の話が続く。司馬さんに限らないが、何か絶叫が聞こえてきそうな文章というものがある。

 あの当時、いざというとき、私どもが南下する道路の路幅は、二車線でしかなかった。その状況下では、東京方面から北関東へ避難すべく北へたどる国民やかれらの大八車で道という道がごったがえすにちがいない。かれらをひき殺さないかぎりどういう作戦行動もとれないのである。さらには、そうなる前に、軍人よりもさきに市民たちが敵の砲火のために死ぬはずだった。何のための軍人だろうと思った。

司馬さんのやりきれない叫びが響いてくる。この後から、いつもの司馬さんらしさを少しずつ取り戻していく。

 敗戦の数カ月前、私どもがいた宿舎は小学校で、この宿舎にきて最初にやったのは、敵の空襲からの被害を避けるために付近の山々に穴を掘って戦車をかくすことと、校庭に小さな壕を掘って、対空用の機関銃座をつくることだった。その作業中、私は、しきりに謡曲の『鉢木』のことをおもった。

無為な作業中も謡曲のことを考えているあたり、いかにも司馬さんらしい。そして、精神としての強靱さを感じる。さらに、戦争体験の話が続く。

 私は、ついに書くことはないだろうと思うが、ノモンハン事変を、ここ十六、七年来しらべてきた。生き残りの人達にも、ずいぶん会ってきた。

書かないことを宣言されている。しかし、書くための努力はずっとなさってきたのである。司馬さんが生きていらっしゃった頃には、もちろん“ディスる”という言葉は世に存在しなかった。この後、司馬さんらしい静謐な書きぶりながら、強烈な言葉が続く。

 当時の参謀本部作戦課長でのちに中将になった人にも会った。このひとは、さきごろ 逝去された。六時間、陽気にほとんど隙間もなく喋られたが、小石ほどの実のあることも言わなかった。私は四十年来、こんなふしぎな人物に会ったことがない。私はメモ帳に一行も書かなかった。書くべきことを相手はいっさい喋らなかったのである。

昨今、いわれのない誹謗中傷が問題になっている。その罵詈雑言もヒドイが、司馬さんのように上品に書くほど、むしろ際立つように感じるのは筆者だけであろうか。

※    ※    ※ 

少し硬い話が続いてきた。この後も続くため、小休止を入れて、オマージュの世界へ飛ぶ。


「信じられません、シヴァンゲリオンのシンクロ率が400%を超えています」というセリフがあっても、不自然に感じないほど徹底したディスりっぷりである。

ヴォーーーと雄叫びを挙げながら、ペンの力で使徒なる中将を食らい尽くす。暴走するシヴァンゲリオン初号機の姿を想像してしまった。

※    ※    ※

これとは逆に、戦場で生き残って、そのあと免職になった一連隊長を信州の盆地の温泉町に訪ねたときは、まだ血が流れつづけている人間を見た思いがした。その話は、事実関係においては凄惨で、述懐において怨嗟に満ちていた。うらみはすべて、参謀という魔法の杖のもちぬしにむけられていた。他者からみれば無限にちかい権能をもちつつ何の責任もとらされず、とりもしないというこの存在に対して、しばしば悪魔!とよんで絶句された。
「元亀天正の装備」
 という形容を、この元大佐は使われた。当時の日本陸軍の装備についてである。いうまでもなく元亀天正とは織田信長の活躍時代のことである。この大佐とその部下たちはその程度の装備をもってソ連の近代陸軍と対戦させられ、結果として敗れた。

戦争の悲惨さを伝える言葉は数多ある。「元亀天正の装備」という表現には、大佐の高い知性と実態の乖離を端的に感じさせるものがある。司馬さんも、この言葉に強烈に共鳴したことが伝わってくる。この後も取材をされた人物を何人か紹介している。そうして、次の言葉へ繋がる。

 以上、われながらとりとめもなく書いている。
 私自身の考え方がまだ十分かたまらずに書いているからで、自分でもいらいらしている。 ともかく自分もその時に生存した昭和前期の国家が何であったかが、四十年考えつづけてもよくわからないのである。よくわからぬままに、その国家の行為だったノモンハン事変が書けるはずがない。

肉迫するような、司馬さんの生々しい言葉に触れた気がした。そうして、この項はこうして締めくくられる。

 明治憲法はいまの憲法と同様、明快に三権(立法・行政・司法)分立の憲法だったのに、昭和になってから変質した。統帥権がしだいに独立しはじめ、ついには三権の上に立ち、一種の万能性を帯びはじめた。統帥権の番人は参謀本部で、事実上かれらの参謀たち(天皇の幕僚)はそれを自分たちが〝所有〟していると信じていた。
 ついでながら憲法上、天皇に国政や統帥の執行責任はない。となれば、参謀本部の権能は無限に近くなり、どういう〝愛国的な〟対外行動でもやれることになる。

司馬さんの「ついでながら」をお借りする。筆者がいくら司馬さんのファンであっても、さすがに「明治憲法はいまの憲法と同様、明快に三権(立法・行政・司法)分立の憲法だった」との説には、賛同できない。

明治憲法は事実上の最高法規とはなっておらず、憲法よりも、国会の議院制定法が優先される法体系であった。いわゆる、(悪い意味の)法律の留保と呼ばれるものである。立法と行政が力を持つようになり、司法の立場は弱くなる。明快に三権分立とは、とても言えない。そういった状況下で、さまざまな悪法(治安維持法)や制度(軍部大臣現役武官制)が成立してしまったのである。

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