見出し画像

第八十七話 花火大会 その二~玉屋と鍵屋ともうひとつ

もくじ

 宿を出たときより、あたりは少し暗くなった。防波堤の先の海と空を青い闇が包み込んでいる。歩行者天国を行き交う客は、学生っぽい若者が多い。岡崎が言うには、この港町は合宿の拠点としてよく知られた場所らしい。北側の山の上に大きなスポーツ公園が開けていて、年間を通じて学生で賑わっているという。山の上に宿泊施設はないから、多くのサークルや部活が港町の旅館やホテルを利用する。スポーツ公園へは、宿が所有するマイクロバスなどで送ってもらうそう。

 行く手に橋が見えてくると、予想に反して混雑が激しくなった。ホテルやリゾートマンションが立ち並ぶこのエリアは、街の中心部だろう。道端の屋台に大勢人が群がっている。歩道脇の防波堤に寄り掛かって、海を眺めている人も多い。広々としたウッドデッキの橋詰広場は、夏の夕暮れの橋涼みにはうってつけだ。砂浜に向かって突き出しているので、花火もよく見えるはず。ただ、当然ながら、ベンチはどこも先客でいっぱいで、座れる場所はない。

「おいおい、こっちに来れば空いてるんじゃなかったのかよ」

 足を止めた久寿彦が、じっとりと岡崎を見つめた。美緒はともかく、岡崎は港町の事情に明るいはず――さっきも訳知り顔で、西を目指せば吉、と言わんばかりに仲間たちに道を示した。

「まさかこんなことになってるとは思いませんでしたよ」

 人で溢れ返る橋詰広場を前にして、苦しい笑いを浮かべる岡崎。合宿に来た日に、花火大会はなかったそうだ。

「まったく、いいかげんなこと言いやがって」

 踵を返した久寿彦に引きずられて全員引き返そうとしたとき、石のベンチに座っていた若者たちが一斉に立ち上がった。どこかの大学のサークルだろう、三十人近い大所帯だ。男女混合のグループだが、男のほうが数が多い。交わされる話し声の中に、「砂浜」、「階段」 という語が交じっている。どうやら砂浜に下りて花火を見ることにしたらしい。先頭の何人かが奥に見える階段口に向かって歩き出すと、ほかのメンバーもぞろぞろとあとに続いた。

「よっしゃ」

 空いたベンチに、いち早く松浦が滑り込んだ。ぼさっと突っ立っている仲間たちに、早く来い、と手招きする。ハッとした真一たちは、慌てて近くのベンチに駆け込み、全員無事に座ることができた。周りの空席も、あっという間に人で埋まってしまった。

 真一の隣には岡崎、その隣には葵が座っている。岡崎は灰皿がないことをぼやき、葵は屋台のかち割り氷を買い忘れたことを悔やんでいたが、この混雑でおいそれと席を立つわけにはいかないだろう。喧騒に交じって、かすかに波の音が聞こえてくる。ベタ凪の海でも、河口の先だけ、わずかに波が立っているようだ。

 とりとめのない会話をしているうちにすっかり暗くなり、一発目の花火が打ち上がった。急に目の前が明るくなったと思ったら、ドーン、と腹まで響く爆音に大気が震える。前席の真帆と夏希が、同時に飛び上がったのが見えた。二人とも完全に虚を突かれたようだ。互いに顔を見合わせ、どちらからともなく声を上げて笑い出す。右端の西脇は、驚いた夏希の肘鉄を食らったらしく、脇腹を押さえながら、リアクションは控えめに、とやんわり注意した。

 さして間を空けず、二発目が打ち上がった。ズドン、とかすかな低い音がして、狼煙みたいな火の玉が夜空に昇っていく。ある程度タイミングを予想できていたので、今度は打ち上げの瞬間から見ることができた。青と白の大輪の菊が視界いっぱいに花開く。爆音と一緒に、道路やウッドデッキから歓声が上がった。

「たまやーっ」

 斜め前のベンチで、松浦が両手を口に充てがっていた。両脇の美緒と益田に、うるさい、と文句を言われるも、それが聞こえていないかのように振り返り、ほかにも掛け声がありましたよね、と久寿彦と美汐に尋ねた。久寿彦は、あったっけ?、と首を傾げたが、美汐は、「かぎや」 じゃない、と答えた。

 ご名答、とばかりに、三発目の花火が打ち上がる。今度はオーソドックスな赤い牡丹だ。松浦が再び声を張り上げた。

「ますだやー」

 益田の家は洋食屋を営んでいる。ただ、店の名前は 「ますだや」 ではない。父親が好きなビートルズのアルバムの名前だったはず。具体的な名前は、真一も覚えていない。「ヘルプ!」 ではないことは確か。

 益田が松浦にヘッドロックをかけようとする。松浦は技をかけられまいと、益田を押し返す。隣の美緒が鬱陶しそうにしているが、後ろのベンチに移ろうとはしない。久寿彦の隣に一人分の空きスペースがあるので、移ろうとすればできるのだが、それをしないのはやはり美汐に気を遣っているからだろう。

「シンさん、一服してきません?」

 プログラムが半分くらい終わったところで、岡崎が声をかけてきた。貧乏ゆすりをして、ニコチン欠乏症に陥ったようだ。遅かれ早かれ、こうなると思っていた。まあ、岡崎にしては頑張ったほうだ。一時間くらい持ち堪えたのではないか。真一もちょうどトイレに行きたかったので、付き合うことにする。取り残されることになった葵が、久寿彦に隣に行っていいかと訊いていたが、咎めるのは不自然なので、何も言わず歩き出した。

 喫煙コーナーは橋詰広場の海側にある。ただ、一見して混雑していることがわかり、橋の向こうに渡ることにした。どうせなら酒でも買って飲みませんか、と言った岡崎に真一は同意する。煙草を吸って橋詰広場に戻っても、座る場所はない。ならば、どこかのベンチでゆっくりしたかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?