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第六十六話 浮き玉/女王様

もくじ

青い海、眩しい太陽、水着の女の子たち――
この章(龍宮 その二 ラムネ色の夏)は、夏も青春も全開です。今ほどではありませんが、1996年の夏もそれなりに暑い夏でした。奥田民生の「イージューライダー」が大ヒットしていましたね。携帯電話やPHSが急速に普及していったのも、95年、96年あたりからです。読者の皆様は、タイムスリップした気持ちになって、あの頃の夏の一日をお楽しみ下さい。

◇◇◇

「お前はどこの海岸が気に入った?」

 沈黙がしばらく続いたのち、真一が口を開いた。汽水池のある海岸は真一のお気に入りだが、久寿彦が好きな海岸はどこだろう。何となく見当がつくものの、一応訊いてみる。

「俺は、やっぱりあそこ。ゑしまが磯」

 予想した通りだった。真一は納得してうなずく。

「あそこ、すごい水の色してたよな。よく海辺の喫茶店とかに吊るしてあるだろ、スイカくらいの大きさのガラス玉。砂色の網に入れられてさ」

 漁具の一つだということはわかる。現在ではなく、だいぶ昔の。ガラスというより、「ビードロ」 と言ったほうがしっくりくる、懐かしい雰囲気を持った飾り物だ。

「浮き玉って言うんだよ」
「浮き玉?」

 初めて聞く名前だ。きょとんとした真一に、久寿彦は続ける。

「ビン玉とも言うな。漁網の浮子に使う。昔は海水浴場のブイやボンデンもあれだったんじゃないかな」

 言われてみれば、昔、どこかの海水浴場で見た気がする。だが、記憶を探る真一の横で久寿彦は怪訝な顔をし、

「でも、それを言うなら、ラムネのビンの色だろ」

 その通りだった。真一は思わず膝を打つ。海のイメージが頭にあったので、つい浮き玉を思い浮かべてしまったが、例えとしては、こっちのほうが一般的だろう。

 ラムネのビンの色は海の色だ。テレビや雑誌で見かける南の島のそれとは違う、もっと身近な海の色。真一は葵のように海のそばで暮らしたことはないが、もし海辺に生まれ育っていたら、この色にいちばん親しみを覚えていたと思う。岩場から飛び込んだり、海の中に潜って魚を追いかけたり――そのとき、視界いっぱいに広がっているのはこの色だ。

 ラムネ色はまた、夏の色でもある。見るだけなら一年中いつでも可能だけれども、この色と一つになれるのは夏場だけ。泳いだり、潜ったりといったことは、夏場にしかできない。

 青でも緑でもないラムネ色。
 去年のひと夏を表すのもこの色だ。

◇◇◇

 八月の上旬、泊りがけで海に行った。お盆の間店は休めず、行楽シーズンが終わって都会に人が戻り始める八月後半もわりと混雑するので、店はこの時期に休みを取ることにしていたのだ。二泊三日の予定で、泊まる場所はマスターの別荘を貸してもらうつもりだったが、出発間際になって、マスターの海外に暮らしている友人が遊びに来ると連絡があり、一泊目は別荘がある山の麓に開けた港町の民宿を利用することになった。一泊六千五百円の安宿で、十五名以上の団体割引が利いて六千円。うち半額を真一たちが自分で負担した。

◇◇◇

 長いトンネルを抜けた途端、待ち構えていたように激しい蝉しぐれが襲ってきた。トンネルの出口が近づいたところで、真一は外の空気を感じたくなって細く窓を開けたのだが、車内に入り込んでくる蝉の声はほとんど轟音に近い。後部座席左側の窓の先には、深く切れ込んだ濃緑の山斜面の合間に、コバルトの海が覗いている。沖合の海光の眩しさに、無意識に目を細めた。ゑしまが磯へと続く道は、汽水池のあった海へ向かう道とは対照的だ。行けども行けども青田が広がっていたあの道と違って、海岸山地の道は、海が見えたり、山が視界を塞いだり、トンネルの先に街が現れたりと変化に富んでいる。

 眩い海面から視線を外して、進行方向に立ちはだかる山を見上げる。山肌をびっしり覆い尽くした濃い緑の葉並みは、シイやタブのものだろうか。ブロッコリーみたいにもこもこして、いかにも暖かい地方の森という感じがする。稜線上に立ち昇る真っ白な入道雲。背後の青空は、絵の具で塗ったみたいに鮮やかだ。青と白と緑の境目が一目瞭然。自然界の色がこんなにも強く自己主張するのは今だけだろう。車は真夏の、さらにそのまたど真ん中をひた走っていた。

「あー、もう、うるさいっ。何でこのクソ暑いのに、そんなの聴いてんのよ。ほかのにして。頭痛くなってきたわ」

 カーステレオから流れる音楽に、後部座席の真ん中に座る美緒がケチをつけた。尖ったギターに、どこか不満げな女のボーカル。久寿彦お気に入りのエラスティカのデビューアルバムだが、特にロック好きでもない人間が聴いたら、好みが分かれるかもしれない。

「ほかのって何だよ」

 ステアリングを握る久寿彦が、ルームミラー越しに美緒を睨む。運転しているのは店のバンではなく、久寿彦自身の車だ。人数が多い今日は、車一台では、とても人も荷物も運び切れない。

「ほかのって言ったらほかのよ」
「それじゃ、わかんないだろ」
「ロックはやめて」

 久寿彦の言葉に応えて、美緒はピシャリと言った。美緒が好きな音楽はクラブミュージック。R&Bを中心に、レゲエやハウスなども聴くが、ジャンルを跨いで聴くのはクラブミュージックの範囲内で、それ以外の音楽――特にロックにはまったく興味がない。

「あいにくだな。俺はロックしか聴かないの」

 元バンドマンの久寿彦は、言うまでもなくロック畑の人間だ。

「知ってるわよ」

 ふん、と鼻を鳴らしてシートにふんぞり返る美緒。長いストレートの髪を掻き上げ、すらりと伸びた小麦色の足を組み替える。黒いヘソ出しTシャツに白のショートパンツという格好は、露出多めで、目のやり場に困りそうだが、美緒にとってはこれが当たり前。真一も最近慣れてきた。

 美緒は店では副リーダー的な立場にある。ただ、リーダーの久寿彦との相性は、お世辞にもいいとは言えない。同じ立場にある美汐が穏健派なのに対し、美緒は上司である久寿彦にもずけずけと物を言い、しょっちゅう対立している。考え方だけでなく、趣味や嗜好もことごとく異なり、バイトという接点がなければ、決して交わることがなかった人間同士と言っていい。

「はあ、あっつい。この車、エアコン壊れてるんじゃないの」

 大げさに手のひらで顔を扇いで、今度は車の文句を言う。

 真一はそっとパワーウィンドウのボタンを押し、細く開けていた窓を閉めた。こっちに火の粉が飛んで来ないとも言えない。

「んなわけないだろ、暑いのは後ろに三人も乗ってるからだよ」

 久寿彦がうまいこと別の理由を挙げてくれた。

「そうだね。筒川さんの言う通りだわ」

 意外にも、美緒はあっさり認める。
 だが、苛立ちが治まったわけではなかった。矛先が替わっただけだ。
 小麦色の足を解くと、拳を握り込み、

「芳一!」

 助手席のシートを後ろから殴りつけた。

「は、はいっ」

 真一の前の大きな人影が、衝撃にびくりと跳ね上がる。

「お前が」「こっちに」「来る」「から」「だっ」

 立て続けにパンチを打ち込む。

「うわわっ、や、やめて下さいっ」
「人の車に何すんだよっ」

 久寿彦と四谷が同時に悲鳴と叫び声を上げた。

 久寿彦は目を吊り上げてミラーを睨んでいる。一方、隣の四谷は巨体を縮めて、弱気なフランケンシュタインのよう。四谷は身長が百九十センチもあり、前に座ると壁が立ちはだかっているようだ。おかげで前方の景色が見えづらい。

「ちょっと、美緒、どうしたのよ」

 美汐が仲裁に入る。横から腕を引っ張られた美緒は、重心を保てなくなって、殴る手を止めた。気持ちを落ち着かせるため深呼吸をし、体の力を抜いて美汐に言う。

「あんたが気にすることじゃないよ」
「何それ、意味わかんない」

 美汐が問いただしても、美緒は正面を見つめたまま。こうなったら、もう口を開くことはない。

 美緒の機嫌は悪い。エアコンや音楽に対して文句を言ったばかりだが、原因はそれだけではないだろう。ここまでの道のりで、ちょっと気になることがあった。

◇◇◇

第七章「龍宮 その二 ラムネ色の夏」は、やや長めの章になります。小説のテーマは「青春の終わり」ですが、前提となる「青春」をしっかり描くことで、「青春の終わり」も引き立ってくると思います。少し回り道をすることになりますが、お付き合いいただければ嬉しいです。

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