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余命宣告〜二年三ヶ月

 二〇一〇年八月十九日(火)

 その日、わたしは、自分が住む街にある、大きな病院の、外科外来の待合室に居た。 

     ※ ※ ※ ※ ※ ※

 名前を呼ばれたので、わたしは、ノックをして、診察室に入った。

 「山口祝子さんですね。」

 「はい。」

 「どうぞ、お座り下さい。」

 外科の医長先生は、優しげな、もうすぐ定年かなというくらいの年格好の方だった。

 先生は、ゆったりとした口調で、穏やかに、けれども決して笑わずに、こう言った。

 「山口祝子さん、検査の結果をご説明します。結論から言いますと、大腸がんですね。しかも、初期ではありません。第三期の後期です。手術をしない場合の余命は、二年三ヶ月です。」

 「は?」

 先生に何を言われたのか、わたしはぼんやりしてしまって、なんだか理解が出来なかった。

 まずもって、自分のことを言われているのかも、よくわからなかったのだ。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 遡ること約二ヶ月前。。

 二〇一〇年六月二十五日(金)

 わたしは、娘二人と高円寺のライブハウスで、リハーサルを始めようとしていた。

 その日は娘たちのユニットの、その年二回目の「自主企画」の日だった。

 娘たちのほかに、その日の「企画」に参加してくれるバンドは、4バンドだった。他に、オープニングアクトのシンガーソングライター1人と、転換時にお願いしているDJも入ると、フロアがいっぱいになってしまうほどの大人の男の人たちが、一堂に会していた。

 その頃、次女はまだ十九才だったけれど、すでに三回の「自主企画」をこなしていたので、もう、手順は心得ていた。

 一人で、テキパキと、自分よりかなり年上のバンドマンの方たちに、「企画の流れ」や、いろいろな「お願い」の説明をし始める。

 わたしは単なるムードメーカーに徹していた。「主役は娘たち」だから、出しゃばらないように、ただニコニコしていた。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 ここまで来るのには、二〇〇六年から、四年ほどの月日が流れていた。。

 娘たちは、ライブに通い続けるうちに、いつの間にか、自分たちで「曲作り」をするようになっていった。

 そして、長女が十八才、次女が十五才になった二〇〇六年の春頃から、下北沢の、当時「下北沢屋根裏」というライブハウスがあったビルの近くの高架下で、二人は路上ライブを始めたのだ。

 長女がアコースティックギターを弾き、次女が歌う、という姉妹ユニットだった。

 やがて、うわさを聞き付けたライブハウスの店長さんや大先輩のバンドマンの方たちが、娘たちを誘って下さるようになり、娘たちは、下北沢の「北沢音楽祭」に出演させて頂けたり、高円寺にあった大先輩のバンドマンの方たちが運営しているライブハウスに出演させてもらえるようになっていった。

 そのうち、「路上」は卒業して、高円寺にあった、大先輩のバンドマンの方たちが運営しているライブハウスが、娘たちの「ホーム」になった。

 そして、定期的にライブをさせてもらっているうちに、「自主企画」もさせてもらえるようになって行ったのだった。

 二〇〇八年になると、二人には、他のライブハウスからも誘いが来るようになった。

 また、出演してみたいライブハウスのオーディションも受けたので、さらに出演するライブハウスは増えた。

 二〇〇九年には、関東近県に、遠征するようにもなり、娘たちもわたしも、「仕事」と「リハーサル」と「ライブ」の繰り返しの、まさに「ライブ漬け」な、多忙を極める生活になっていった。

 二人は、完全に、ライブを「観る側」から「演る側」に変身したのだ。

 わたしはと言えば、そんな二人のリハーサルに付き合い、ライブの時は「よろず調達係」をし、ライブに穴を空けないよう、二人の体調管理に明け暮れた。

 それでも、貪欲にも、まだ、自分の好きなバンドのライブにも、相変わらず通っていた。

 そのうえ、いろいろなライブハウスに顔を出して、娘たちの自主企画に来て貰えそうな新人アーティストや新人バンドを探してもいた。

 もちろん、「家事」と「パート」もルーティンでこなしていたので、わたしは文字通り、寝る間も無かった。
 
 二〇〇三年に、呼ばれるようにして訪ねた「下北沢」との「再会」は、わたしたち家族を、そこまで「変化」させていたのだった。

 ひたすらに、がむしゃらに、わたしは「破滅に向かって」生き急いでいた。それも、全く気付くこと無く。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

  二〇一〇年六月二十六日(土)

 「自主企画」は、お客さんも来てくれて、赤字にもならず、ほぼほぼ成功のうちに終わり、楽しい時間を作り出すことが出来て、わたしも娘たちも、ほっと安心していた。

 そして、明けた二十六日、わたしたちは、結構な睡眠不足のまま、正装して、横浜に向かったのだった。

 この日は、娘たちの先輩バンドの方の「結婚パーティ」に、招待して頂いていたのだ。

 知り合いのバンドマンばかりの素敵なパーティは、充分に楽しかった。

 でも、そこで、「事件」は起きた。。

 最後の乾杯のグラスに飲み物を注いでもらって、そのグラスを次女に渡そうとした瞬間に、なぜか、パンプスのヒールが、絨毯に引っかかって、わたしはいきなり転んでしまったのだ。

 「ブチッ!」

 右足の甲の血管が切れる音がした。。

 右足の甲が内出血で、みるみる腫れて来るのがわかった。

 それでも、おめでたい席に水を差すようなことは出来ない。

 「どうしよう。。」

 次女と二人でまごまごしていたら、そばに居た知り合いのバンドマンが、

 「大丈夫ですか?」

と駆け寄ってくれた。

 こっそりと、氷を入れたビニール袋を作ってくれて、右足の甲にあてがってくれたのだ。助かった。なんて優しい。

 手早く冷やせたことで、出血はすぐに止まった。でも、右足の甲は、象さんみたいに腫れ上がったままだ。

 ただ幸運なことに、パーティは終盤に差し掛かっていたので、大騒ぎにもならず、なんとか誤魔化して、終えることが出来た。

 わたしは、ゆっくりゆっくり足を引きずりながら、娘たちに手を貸してもらって電車を乗り継ぎ、二時間半くらいかかって、やっと地元に帰り着いた。

 転んだのは土曜日だったので、もう、ほとんどの病院は終わっている。

 いろいろ調べたら、自宅近くの接骨院の先生が往診してくれることを見つけたので、早速お願いして来て頂いた。

 先生の見立てでは、足は血管が切れているだけでなく、「挫いている」ということだった。しばらくは、足を高くして、吊った状態にして、足の腫れが引いたら、病院まで来てください、と言って、先生は帰って行った。

 「初期の処置がとても良かったので、悪化しないで治りますよ。」と言われたので、氷の袋をすぐに作ってくれた彼に、こころから感謝した。

 でも、完治まで二ヶ月はかかると言われた。そこで、わたしは、まず、「パート」を辞めた。さっぱりと、無職になった。治療に専念出来る。

 腫れが引いたあとは、通院が始まった。松葉杖である。やがて一ヶ月が過ぎ、ようやく、松葉杖を使わずに歩けるようになった。

 そのとき、ふと、思った。

 ーーこんな休暇はめったにないから、「市民検診」を受けよう。

 今まで、忙しさにかまけて、気になりながらも、ずっと「市民検診」を受けずに来たので、良いチャンスだと思ったのだ。

 そんな流れで、わたしは、初めての「市民検診」を受けた。

 あの「結婚パーティ」で、「転ぶこと」が無かったら、わたしは「市民検診」なんて受けなかったはずだ。普通に忙しくしていたと思う。

 受けた「市民検診」で、その「異常」は、見つかった。

 そして、、冒頭に戻る。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 あっけにとられて、目をパチクリさせているわたしに向かって、

 外科の医長先生は、

 「次回いらした時に、手術についての詳しい説明をします。どなたでも良いですから、ご家族も一緒に連れて来て下さい。」

と言った。

 わたしは、なんだか夢心地で、その話を聞いていた。

 「はい、わかりました。」

 そう言って、頭を下げて、診察室を出たのだけれど、ただ、ぼんやりしていた。 

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「余命二年三ヶ月なんだって。」

 「え?」

 家族は皆一様に驚いた。当たり前だ。だって、どこも具合なんて悪くないし、足も治って、ピンピンしているのに、もう、「死んじゃうらしい。」のだから。。

 「でも、おかあさん、病気で死ぬなら寿命だよね。事故とかじゃないもの。」

 いつも冷静な次女は、そう言った。

 なるほど、一理ある。

 長女の感想は全然違っていた。

 泣きながら、

「おかあさんに、わたし、孫とか見せられないじゃん。もう死んじゃうなら。」

と、言った。

 それも、一理ある。

 夫は、

「いやいや、手術しなかったら、死んじゃうってことだから、手術をすれば良いんだよ。」

と、普通に言った。

 その通りだ、と思った。

 家族のそれぞれの感想を聞いても、わたしはまだ、自分のこととして捉えることが出来ずに、ぼんやりしていた。

 そんなことになっても、わたしはまだ、次回の娘たちの「自主企画」に出てもらうバンドについて考えていた。

 次回の「自主企画」は十一月なのだ。夏のうちに出演バンドを決めておかないと間に合わない。

 それに、繊細な長女が、ずっと無理をしてきたところに、わたしの「死んじゃうおはなし」にショックを受けて、「うつ」っぽくなり、体調を崩し、声が出にくくなっていることを、自分のことより心配していた。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「山口さん、山口さん。」

 呼ばれた声で振り返ると、そこには、わたしが大好きだった「三人組バンド」の「ギターの彼」が立っていた。

「まぁ、どうしたの? 何ですか?」

「山口さん、手術受けたら大丈夫ですよ。手術受けて下さいね。」

 彼はそう言うと、ふっと消えた。。

 消えた?

 はっと目が覚めた。夢だったのだ。

 びっくりした。「ギターの彼」が夢に出て来たことなんて、初めてだったから。。

 でも、なんか、励ましてくれた気がして、わたしは、嬉しい気持ちで夢から覚めたのだ。不思議な夢だった。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「余命二年三ヶ月」。。

 そう告げられたのは、わたしが五十三才の時だった。

 だから、「市民検診」も受けず、自分が「末期がん」であることにも気づかずに、「自主企画」のことばかりに奔走していたら、今のわたしは確実に「この世」には居ない。。

 さまざまな「偶然」が重なり、わたしは、まだ「手術」が可能な時期に「末期がん」に気付くことが出来たのだ。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

  二〇一〇年十月十二日(火)

 わたしは、五十四才の誕生日の次の日に、「手術」を受けた。

 「手術」は、五時間以上もかかった。たまたま、大変に腕利きの先生がその時期、短期間だけ、通院していた病院に居てくれて、わたしは恵まれた「手術」を受けることが出来たのだった。

 内視鏡による「手術」だったから、表面には、傷はあまりないのだけれど、お腹のなかはズタズタになったのだと思う。

 体調はなかなか回復せず、まず、汗がかけなくなった。そして、「腸」が少なくなったためか 頭が働かなくなった。常にぼーっとしていた。

「腸」には、「脳」がある、と言われているようだけれど、まるで、「脳」が半分になってしまったような感覚がした。それはかなり長い期間続いた。

 二〇一六年には、「胆嚢がん」も疑われて、「胆嚢」も「全摘」した。

 不思議なことに、その時も、わたしの夢に、「ギターの彼」は現れたのだ。

「山口さん、五十九才は、ギリギリ、オッケーですよ。」

 夢のなかで、「ギターの彼」は、たしかに、そう言った。

 全摘した「胆嚢」は、まだ、「がん化」はしていなかったのだけれど、かなり大きくなっていたので、もう少し放っておいたら「危険だった」と、「手術」してくれた先生に言われた。

 やっぱり、「ギリギリ、オッケー。」だったのだ。

 ね。霊感あるの?

 不思議だ。

 「余命宣告」は、たしかにショッキングである。

 でも、人って、みんな、いずれは死んじゃうよね。。

 本当は、みんな、それぞれに、「余命宣告」を抱えて生きているんだ。と思ったりする。

 わたしは、「末期がん」だったのに、幸運にも、奇跡的にも、まだ、生かしてもらっている。

 わたしの人生に関わってくれて、わたしが死なないように、偶然にも守ってくれた人たちに、感謝しながら、毎日を生きている。。ありがとうございます。

 あと、三十年くらい生きようかな、、余裕で、ね。

 

 

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