Aurora 総論
Giving in to the love, I feel ali-li-live!
Auroraというアーティストがいる。一見ただのハイテンションの高校生にみえる。が、彼女の眼差しはそんじょそこらの高校生のものでは決してない。彼女は10年以上のキャリアで何を歌ったのだろうか。この記事では、最新のアルバム「The Gods We Can Touch」を軸に据えて彼女のメッセージを読み解いていく。
註:環境問題・宗教・LGBTQについて歌っていることは無論承知だが、それぞれの曲(環境問題:”Animal”, “The Seed”, “Exhale Inhale”, 宗教:”You Keep Me Crawling”, “Heathens”, LGBTQ:”Queendom”, etc.)を聞けば彼女の主張は明らかなので、ここではテーマとしては扱わない。
まず聞いてみよう。
“Everything Matters” (featuring Pomme) :個人の社会問題の受容環境について
こう彼女は歌う。
今、社会にはいろいろな問題があり、いろいろな人がいろいろなことを言っている。それを私たちはいろいろな場面で受容する。例えばスマホやパソコンの画面に映る沢山のバナーやうんざりするような広告を通じて、またテレビや周りの人間の口や態度を通してだ。
そのようなものごとを「理解」するにはいくつか方法があると思う。そのうち一つは合理性に依る方法だろう。このとき、受容者は対象を、その要素・特徴ごとにいくつかに切り分けて分類する。ちょうど小学校~高校の数学の図形問題で、出題された図形に知っている図形を見出すのと同じだ。もしくは文章で書かれた内容に比例や反比例、二次関数や三次関数などの既知の関係を見出すのに例えてもいいだろう。
しかし、それが義務教育の数学の問題と違うのは、前提とされる知識の性質だ。そこでは出題者もまた人であるため、人為的に明確に定義された概念、もしくはその概念の内の明確な部分しか使われない。一方、先に述べたような社会問題ではそうはいかない。それを理解するのに必要な概念は人為的に定義されたものではなく、先人の努力によって一定程度「確からしい」と思えるものではあるが、どこまでいっても仮定に過ぎない。また必要な知識がどこからどこまであるのかもわからない。つまり、当たり前ではあるがそのような問題については、必要な道具が全てあるのか、またどれが必要なのか、それぞれが思っている通りの働きをするのか、そして自分のその方法論が正しいのか、これらが全て、「たぶん正しいだろう」と「仮定」してことにあたるほかはない。そして、ほとんどの人、またほとんどの場合、これらの知識は足りず、杖だと思っていたものは体外折れた葦である。
上で軽く触れたように、問題そのものについての情報やそれに対する言説と個人の接地面は、現在異常に広くなっているように思う。朝起きてスマホを見、電車に乗って再び取り出し、授業中でさえ取り出している。個人個人それぞれ興味のあることとないことがあり、また処理できる情報量もそれぞれだ。この「個人」観に立ったとき、現在の接地面の広さは各個人に過剰に負担をかけていると考えられる。
処理しきれないがゆえに、その場しのぎ的な対応か無視することにならざるを得ない。私を含め、多くの人が後者だろう。しかしながら、本ブログのマニュフェストで述べたように、「社会と個人とは不可分のものなの」だ。ゆえに、いくら無視しても、知らぬ間に個人は問題の中にいる。不作為もまた作為であるのだ。YouTubeに出てくる貧困問題や環境問題に関する宣伝を見て、それらに対して「何もしない」という意識的な「選択」(=意思表示)をしているのである。ハネケ曰く「隠された記憶」、つまり先進諸国民が生まれながらに負う「疚しさ」もその一つだろう。誰しもが、足掻いたとて内在化を免れえない。つまり、
というわけである。
“Cure for Me” 社会vs個人
自然の中に入ると、勝手に体が動いて虫取りをはじめる。音楽を聞くと勝手に体が動き出す。こんなようなことは誰しも、少なくとも子供のころはあったのではないだろうか。彼女は、
と自身を定義しており、Wikipediaの記述をみても彼女が幼少のころから自然の中で過ごしてきたことがうかがえる。彼女も「勝手に体が動く」人なのだろう。彼女の場合は大人になってもなお、かもしれない。この曲で彼女はDancing Tutorialまで作って投稿しているところを見ると、少々過ぎた深読みだが、「勝手に体が動く」感覚を聞く人に思い出させ再び植え付けようとしているともとれる。言葉にするなら、
自己利益しか頭にない俗物のいる場所から飛び出して、自分らしく生きよう!俗物たちよ、私に構わないで!内発性に従おう!
といったところか。なんといっても、I got the moving heart なのだ。
Giving in to the love / Exist for love「愛」について
彼女は歌う。
Giving In To The Love
(筆者による解釈)
ひととのつながりを失った
でも私は私らしく生きる
ひとの目に縛られる必要なんてない
だってわたしが「いい子」じゃなかったら
今の私ってやりすぎだと思う、でも
どうやって友だちつくったらいいか分からない
もしわたしが他の誰かだったら
感じる空気にわたしの振る舞いを決めさせたりしない
世界はわたしのものじゃないのに
どうして空気(=世界/社会)に合わせなくちゃならいの?
愛の中に生きよう!
探そうとしてる人はいる
死んではいない、生きてるひとを
でもみんな泣きじゃくってるくせに誰もひとを慰めようとしない
テレビは毎日的外れなことばかり言う。私の心は傷ついてる
もし愛されてなかったら
わたしは自分が孤独なんだと感じる
どうやって乗り越えたらいいのか知らなきゃ
もしわたしが他の誰かだったら
感じる空気にわたしの振る舞いを決めさせたりしない
世界はわたしのものじゃないのに
どうして空気(=世界/社会)に合わせなくちゃならいの?
愛の中に生きよう!
というわけだ。Exist for loveで歌われることもおおよそ同じである。彼女の愛についての曲というと、”I Went To Far”や”Forgotten Love”, “Gentle Earthquakes”, “It Happend Quiet”など枚挙に暇がない。そして最後に辿りつたのが”Exist For Love”。愛の中に人生はある、というのが彼女の音楽の一つのテーマであるようだ。
“A Dangerous Thing” / “The Innocent” 人っていろんな面があるよね。男よ、愛を知れ!
ここで男性は危険だ、と言いながらも主張としては上で紹介した2曲(”Giving In To The Love”と”Exist For Love”)を持ってきている。
マニュフェストで詳述した作品評価のための概念セットを用いると、2曲が「主張」の曲であるのに対して、この曲は「描写」の曲であろう。そして下のリリックはなかなか的を得ているように思う。
また「描写」の曲と言いながらも、
といったリリックの片隅に潜り込んでいる一節は「主張」らしくもある。この章の最初の引用にもあるように、男性の「愛」への疎さをいっているように思える。男女を比べた時に、女性の方がコミュニケーションに積極的だろう。孤独死に関する調査(2022 年11月日本少額短期保険協会孤独死対策委員会 孤独死現状レポート)の結果は孤独死の8割以上が男性で、彼らはコミュニケーションが少なかったことがデータから推察される。私はAuroraの男性の愛の疎さを歌ったリリックは、穿ったものだと思う。
“Blood in the Wine”/”This Could Be a Dream”/”A Little Place Called the Moon” 内発性の輝きに生きよ! 愛とホームベースを得よ!
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