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建築家のカッコ良さ

はじめまして

この一文から始めさせていただきます。

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建築雑誌などを読むと建築家というものに憧れる。初めは建築家が生み出した建築のビジュアルに感銘を受ける。ある程度学び知見を得るうちに、建築家の思想や言葉に憧れを持つ。しかしこれはある種のトラップと言える。

建築というものを学び始めた殆どの学生は建築設計・建築意匠を憧れ志す。いわば花形のようなものだ。その花形ど真ん中が建築家といえるだろう。計算だったり、土木的工学的なことをすっ飛ばして自由に、そしてセンスで作っているように見える。今ではそんなことはないと分かるが、物事が分からない過去の私は、少なくともそう思っていた。

そもそも人間というものは想像できるものには安心感を覚える。一方で、なにが行われているのかよく分からないものには強い不安感を抱く。私自身も想像がしやすい設計者・建築家というものに憧れを抱いていた。今ではその憧れを捨てたとか、そういう話ではない。建築家だけが建築を作る上での王道であり、先端であり、最も優れた者というわけではないことを知ったのだ。

建築という作品は設計者の作品として言われることが多いが決してそんなことはない。設計している人が生み出したものというのが世間的に想像しやすいだけだ。本や雑誌でも建築家の言葉やインタビューは多いが、技術者の言葉というのは少ない。建築家は思想を話すため、多くの人が共通認識出来る。しかし、技術者の「この建築ではここの納まりが苦労した」などと話しても分かる人は少ない。本や雑誌が悪いと言う話ではなく、話が分かる母体数の問題だ。実際、より専門的な雑誌では、技術的な話だけをしているものもある。私は読んでもさっぱり分からなかったが。

インターンシップを経験して様々な建築との関わり方を見てきた。実際に設計を行う者。現場監督。現場職人。構造設計。設備設計。ここに挙げたのはほんの一部だ。現場の人間達は設計者のことをよく先生といっていたが、設計者だけではどうにもならないことは、この期間でよく分かった。

学生の時に行う設計課題と実際に建築家が行う実施設計は大きく異なる。学生設計にも与条件はあるが、制約がほとんどない。学生時代から制約をつけての設計では伸び伸びとした思想で育まれない、そもそもリアリティを想像することが学生には難しいなどがあるのだろう。とはいえ、制約無しの設計ではある種自分の思いのままに、自己中心的に作品が作れる。

実施設計はそうもいかない。様々な問題が絡んでくる。近隣問題、環境的問題、技術的問題、金銭的問題など様々だ。そして、大きく異なる点は施主という存在だろう。学生設計は誰かのための、と口にしてはいても根本は自分のための設計だ。しかし、実施設計とは施主のために建てるのだ。自邸でもない限り、自己中心的に計画するのはほぼ不可能といえる。

いい建築になるかどうかは、もちろん建築家の技量も必要だ。だが、1番大きいのは施主の存在だ。いくらものすごい建築家だろうと、施主が保守的で機能性や住みやすさを追求しすぎると、フルフラットの巨大なワンルームが建つ。建築家と共鳴しながら「面白いからやってみましょう!」といって、不自由さや不便さを豊かさと捉えられる施主との設計で名建築というものが生まれる。

かといって、全ての人が不自由さや不便さを我慢しなければいけないのかというとそうではない。いってしまえば、それは多様性だ。ワンルームで住みやすい部屋が好きな人もいれば、無駄を楽しむ人もいる。学生の頃は、建築という素晴らしいものがあるのだから、皆ワンルームに住むのはやめて、建築家に建ててもらう人が増えればいいのに、世間的建築と建築界隈における建築の認識のズレを擦り合わせたい、などと思っていたが。たぶんそれは間違っていた。楽しむ人だけ楽しんでそれを強要してはいけない。それが社会というものだろう。

完全に着地点を見失った。建築家というものは多くの人が憧れるかっこいい職業である。と同時に建築という分野において、建築家に対して盲目的に憧れるのは少し違うというのを書いておきたかった。建築というものに憧れやカッコ良さを感じたら、設計者だけでなく、それに関わったであろう、たくさんの人のことを想像してほしい。

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手の届く範囲にいるあなたが

幸せでいることを願います

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