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「能動的誤配」がひらく可能性|東浩紀『哲学の誤配』を読んで

こんにちは。XD編集部員/CX DIVE構成員の柏原(@tkashiwabara09)です。

いきなり白状すると、わたしは割と古めの東浩紀読者です。はじめて読んだのは『動物化するポストモダン』でしょうか。学生のころに出会い、大体の著作は読み、都度惹かれたことが記憶にあります。当時(2009年くらい?)はTwitterやニコニコ動画なども登場し、積極的に活用するその在り方は、著作もさることながらその実践においても魅力的な存在でありました。当時の東さんの一次的情報源はTwitter。彼をフォローしていたつながりで友人もできました。

(よく考えると『動物化するポストモダン』を読んだのは発刊されてから恐らく6年程度経った2007年くらいだし、『批評空間』や「波状言論」の時代は史実としてしか知らないので、古いは言いすぎでした。)

ゲンロンに応援カンパしたという話

それが、2012年に就職したころでしょうか、あまり彼を追いかけることができなくなってしまった。新刊が出れば買い、読んではいたのですが、その程度。実はゲンロンカフェにも行ったことがない。ところが先月、新型コロナウィルスの影響でゲンロンが応援カンパを募っているのを見かけ、少しでも力になりたいなと思ってしまい、カンパをした。

その返礼の品のひとつが、新刊の『哲学の誤配』。彼が2012年以降に行なった対談・鼎談をまとめた『新対話篇』も同時発売してるので、どちらも買ったら良いと思います。

読んでみると、『一般意志2.0』『弱いつながり』『観光客の哲学』といったここ10年の著作における問題意識、過去の著作との接続可能性とその更新過程、そしてゲンロンおよびゲンロンカフェという実践が彼の思想においてどのような意味をもっているのか、などが異常な読みやすさと見通しの良さともに綴られています。この感想は、主に韓国の読者に向けた2つのインタビューに基づくものです。インタビュアーの安天氏の力量も凄まじいものがあると感じます。

ところで、特にCX DIVEというカンファレンスを企画する立場として、本書のタイトルにもある「誤配」がとても大事だと感じたわけです。端的にいえば、わたしたちも誤配を意図し、能動的誤配を実践しなければいけないと思った。

誤配とはなにか

誤配とは「間違った宛先に届き、間違って理解されること」。『存在論的、郵便的』から続く彼の哲学の中心概念です。普通はネガティブな意味をもつことの多い「誤配」ですが、ポジティブにその可能性を捉えています。本書ではいくつか誤配に言及していますが、以下のTEDとゲンロンカフェの対比がわかりやすい。

最近冗談で、「ゲンロンカフェは、TEDでは3分でしゃべっていることを3時間かけてしゃべる」といっています。TEDは、まさに誤配のない、準備が整った、明確な目的をもったプレゼンテーションです。他方でゲンロンカフェは無駄話の空間です。3時間の会話は、TEDの観点からしたらほとんどが無駄でしょう。けれども、そんな無駄な情報に見えるものが、観客に思わぬ思いつきを与え、次のイノベーションにつながるかもしれない。哲学はつねに一見無駄話に思われるところにあります。ぼくはそのような誤配=出来事のために、ゲンロンカフェを運営しています。だから、無駄話といっても、ほんとうのただの無駄話になってはいけないんですね。そこはバランスが重要で、このバランス感覚こそが、誤配を生み出すといえるかもしれません。(東浩紀『哲学の誤配』p92-93)

一方で、いまのインターネットを中心とした情報環境・コミュニケーション環境では、誤配は起きにくくなっているということを指摘しています。

いま思えば、『存在論的、郵便的』を書いたころは、誤配は「自然に」生じると考えていたように思います。けれどもその後、状況が変わり、いまは、誤配というのはむしろ放っておくと生まれなくなる、だから誤配を増やすように人工的に環境を整えなければいけないという考えに変わってきた。ゲンロンやゲンロンカフェでやっている活動は、そういう環境づくりです。(東浩紀『哲学の誤配』p.91-92)

意図しなければ、一企業が開催するカンファレンスでも同じようなことが起きてしまいがちです。能動的に、自分の検索ワード外の発想で企画をしなければ、結局は既視感のあるイベントが出来上がってしまう。既視感があるということは、代替できるということと同義です。参加してくれる方々の属性を更新することにもならないでしょう。

これが常態化すれば、参加してくれる方に対しても、そして世の中に対しても、新しい価値を投げかけることにはならないのではないか。そうなってしまえば、自分たちでイベントを開催する意味はないのでしょう。世の中にビジネスカンファレンスは山ほど開催されているわけですから。

このような危惧に輪郭を与えてくれたのが誤配という概念であると感じたわけです。そもそも、メディア運営とフィジカルなイベント開催という二方面戦略の発想も、どちらかだけでは誤配の可能性を担保できないのではないか、という直感に基づいていたのかもしれません。

すみません嘘です。さすがに遡及的に都合よく解釈しすぎました。でもそれくらい、今さらながらグッときてしまった。自分が熱心に東さんを読んでいた頃には、できなかった読み方かもしれません。

誤配が目指すのは、あらかじめ決められた明確な目的を達成することではなく、偶然的に生まれるコミュニケーションの過程から、自分そして他者の考え方やアイデアを刺激し、各々が自己を更新するような機会となることです。

CX DIVEも「正解の持ち帰り」は意図していません。参加した方々が、どうやったら主体的に考えることができるか?そのきっかけや足がかりになることを期待しています。そのためには、東さんのいう「能動的誤配」という矛盾した在り方に取り組まなければいけない。そんなことを思わせてくれました。できるかどうかはわからないけど、やらなきゃいけないのだろう。

手紙の送り手こそが、自由でなければならない

最後に、本書の「はじめに」から引用します。

 ぼくはいま四八歳で、四半世紀以上も書く仕事を続けている。だから、自分の文章がどのような読者に好かれ、どのような読者に嫌われるのか、だいたい予想ができてしまう。その予測はほとんど外れないし、それにしたがえば一定の評価は得られる。それがプロということだが、同時にそれはとても不自由で、息苦しい経験でもある。ぼくはあるときから、その限界を強く意識するようになった。
 翻訳は、まさにその息苦しさから著者を解放してくれる。ぼくは韓国語は読めない。書評もSNSの反応も読むことができない。だから、自分の文章が韓国でどのような読者に届き、どのような読者に支持されるのか、ほとんど予測できない。日本との類推で憶測をめぐらせることはできるが、それに確信をもつことはできない。つまりは、ぼくは本書の韓国語版については、正しい宛先=読者を思い浮かべることなく、一方的に発送する=市場に送り出すしかないのだ。それはたいへん不安な経験である。しかし同時にとても自由な経験でもある。

手紙の送り手たる自分こそがまず自由であること。これも大事な指摘と思います。忖度したり、他の出方を窺ったり、わたしたちのこころのなかの想像の他者はそれだけで、わたしたちの思考を拘束し、十分に不自由にし得る。ここから解放されなければ、変化したり、前に進むことはできないのではないか、という意味と受け取りました。

もちろんその前提として、まず自分自身こそが知識を血肉化し、深い思考を重ねるということが必要になる。その前提を経ずに自由になっても、きっと誤配は起こらないのでしょう。

ここまでの感想は、きっと「正しい宛先に向けた、正しい言葉」の結果なのではないか、という思いが拭えません。したがって、本書の思いに則るのであれば、やはりわたしのような読者だけではなく、また別の宛先に届く可能性をもっと拡げてほしいと切に願っています。拙い感想ですが、これが『哲学の誤配』の誤配される可能性を少しでも押し上げることにつながれば本望です。

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