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#1989年
【1989年100日旅】20日目。モスクワ
20日目。一人でモスクワ大学の寮の中庭に出ると、前日遊んだ「おもちゃのからす」君だけがいて、私に「こっち、こっち」と誘ってくれた。門を乗り越え、塀をすり抜けて彼が連れて行ってくれたのは、いつも見ているモスクワ大学とは反対側の広大な池のスペース。今は雀が丘と呼ばれているらしいけれど、当時はレーニン丘という名前だったらしい。
中庭の小さなスペースとは違い、広くて明るい。噴水からは水は出ていなかったけ
【1989年100日旅】17日目。モスクワ
17日目。小学校は授業参観日。1時間だけで学校を終え、父の住むモスクワ大学の寮に戻った。ロシア人らしき男の子が二人いたので、言葉は通じなかったけれど一緒に遊んだ。言葉が全く通じなくても意外とコミュニケーションはとれるもので、この旅ではいろんな国の子供と遊んだ。
午後はアルバート通りへ。歩行者天国の通りで、おみやげ屋、骨董品屋、カフェ、レストラン、帽子屋などのお店がたくさんあった。道端で似顔絵を描
【1989年100日旅】15日目。モスクワ
1989年の今日は旅の15日目。この日は、モスクワ大学の寮の探検をした。モスクワ大学の寮には当時の書記長、ミハイル・ゴルバチョフがかつて住んでいた部屋もあって、それを探しに行った。特に他の部屋と変わることもない、ザ・ソ連な感じの外観だったけれど、プレートがかかっていた。テレビでゴルバチョフを見て、知っているような気になっていたから、寮の部屋を見たときはうれしかった。
ゴルバチョフは妻とモスクワ大
【1989年100日旅】13日目。モスクワ
1989年4月18日。旅は13日目。同じスクールバスに乗るクラスメートが、一緒にクラブに入ろうと誘ってくれたので、バラライカという三角形で三弦しかないソ連の伝統的な楽器のクラブに入ることに決めた。
音楽の先生でもあった教頭先生が、ロシア人の先生と一緒に教えてくれた。メイン弦が針金で、指で抑えるのはなかなか苦行だったけれど、キラキラした音が出るのが気に入っていた。
学校へはホテルからスクールバス
【1989年100日旅】12日目。モスクワ
1989年4月17日。旅は12日目。学校へ。クラスメートがこれまでに行った国々の話をしてくれた。6年生で行く修学旅行など、学校行事もソ連国内ではなく、ヨーロッパに出かけると聞いた。またモスクワ日本人学校には高等部がないので、親の任期が続く場合は、多くは英語圏の学校に進学するらしかった。「世界が小さくなったみたい」と日記に書いている。
この日は妹の誕生日で、両親がケーキをどこかで入手してきた。白く
【1989年100日旅】7日目。モスクワ
1989年4月12日。この日はビザ申請をしに東ドイツ大使館に行った。東ドイツ大使館は、相手が日本語ではなくロシア語を話すという点が違うだけで、日本のソ連大使館とあまり違わないと感じた。つまり無愛想。あまりに長い時間待たされ、退屈して妹弟と騒ぎすぎて、大使館の人から激しく怒られた。ビザをもらえないのでは、と親が心配するほどだったらしい。
その日、初めて自動販売機でジュースを買ってもらって飲んだ。ソ
【1989年100日旅】4日目。モスクワ
1989年4月9日。ゴーリキイ公園に行き、シャシリク(串焼き肉)を食べた。当時のソ連には橋や建物等、防衛上撮影禁止の場所がたくさんあり、警官に見つかるとカメラやフィルムを没収されるらしかった。ゴーリキイ公園も本来は撮影禁止。「でも、こっそり撮った」と日記にある。子供を立たせてピースかなんかさせておき、写真を撮るのがコツだったらしい。
ハードロックバンド、スコーピオンズは『ウィンド・オブ・チェンジ