人の「器の大きさ」は作り変えられる
器の大きさとはまるで各自に備えられた、先天的なもののように語られがち。気質のように、ある程度それもあるのかもしれない。でも後天的にもかなり、自分次第でも変化可能なものなのだと思う。
器量の大きさは伝染する
わたしが今住んでる南ドイツの地方都市では、いつも驚くほどに住人がご機嫌、親切で寛容。一言で言えば「器量の大きな人々が多い」と感じていて、それはステキな伝染に伝染が重なった結果なのだろうと思う。
引っ越し搬入をしてたら初対面のマンションの住人達が次々と「手伝うよ〜!」と声をかけてくれたり、ある人は空腹を満たす食事を用意してくれたり。街を歩いててくしゃみをしたら、老夫婦で散歩してたお婆ちゃんが「見てたわよ、大丈夫?お大事にね!」と近くまで声をかけに来てくれたり。
ジムやお店でもご機嫌な人が多く、スタッフ達の親密さが伝わるような場面もよく見る。ビジネスを中心に置いてるような圧や切羽詰まった感がなく、聞けば温かく親身に案内してくれ、通常はほかっといてくれる。だからもっと通いたくなる。
ローカルの方々何人かにも聞いてみたけど、「この街の人々は特別にラブリー」で、隣町ですら結構違うみたい。理由や背景は日々探り中なので、わかってきたらまた改めて記事にしますね〜!
こういう場所に居ると自分にも余裕が生まれ、他者にもっと優しくなれる。そうではない環境に居たときのように、帰ったらグッタリ倒れ込むことも格段に減った。ストレスの原因の多くが、人々の不機嫌や不誠実、不寛容からなのだと改めて思った。
ムラ社会には愛を
ムラ社会という言葉がある。そこには地域の機能を守り維持するために作られた風習や暗黙のルールがある。異端は排除したがり、外から来たものをそう易々とは受け入れない。「郷に入れば剛に従え」と言われる。
大差あれ、世界中何処にだってそういう部分があると思う。閉鎖的であるからこそ守られ成長した素晴らしい文化圏もあって、単純な甲乙で捉えるのはナンセンス。だけど限界があるのは周知の事実で、要はバランスなのですよね。
ムラ社会と愛という寛容の両立... 可能ではないでしょうか?住人其々がこれを望むなら、という前提ありきですが。
器の大きな人・小さな人
器の大きな人は、短略的に決め付けない。つまり短気じゃない。支配しない。自分の知見だけを正しいとせず、内省し、他者への思いやりとリスペクトを携えてる。忍耐強く待てる。人の欠点や失敗を許し、良いところに着目できる。
器の小さな人は虚栄心が強く、自分の価値観や受けてきた教育、経験観測データ外にある対象を認め敬うことが出来ない。優劣・ヒエラルキー思考で、相手によって接し方を極端に変えることさえある。人種差別や(その人が勝手に定めた)階級差別が良い例だと思う。
異論や追記は認めます☺︎
神様の寛容性・悪魔の非寛容性
極論、器の大きな人とは、神様の性質に似た広い視野と深い愛のある人のことなのだと、信仰者である私は思ってる。
創造主である神様はとにかく幅が広い。カラフル鮮やかでアクティブな鳥、デカくて動きのゆったりな深海魚、猫だけ見てもみ〜んな個性が違う。その全てを「良し」とされ、愛を持って創造された。
悪魔は優劣を付けたがる。特に神の似姿である人間には、本当に大切なことから目を背けさせ、争わせたい。悪魔にとって憎き対象が創った世界を・生物を蔑ろにしたいから。世はその影響を山ほどに受けてる。
世の中でどんなに凄いと言われてる人でさえ、全知全能ではない。自分が目の前に居る相手より何もかも優れてる・知ってる等と思うなら、それは驕りであり飛んだ勘違いと言えるもの。評価軸なんてのも人や場所、時代で容易に変わる。
器を変えるのは意識であり意志
例えその対象の個性や成すことが自分の正義や常識とかけ離れてたとしても、「自分には見えていない部分がきっとある」と謙り、"性別や年齢、立場、好き嫌いさえ超えて、理解できなくても寛容・敬愛を持てるかどうか"は、意識であり意志だと思う。
この世界は広く多種多様で、自分と自分の知見はその中の極一部であると理解している/違う視点を面白がり学ぶ心のある人-このような人は人々や世界の多面的な良さを探り、見つけ、認め、褒め、励まし、見守り、応援することができる。
そんな人にわたしはなりたい。アーメン!
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