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雪解けの大地が映し出す「心」のほぐれ⑩

雪解けが進みはじめる、4月の北の大地。
この地に足を踏み入れるのは、前職の出張以来となる6年ぶりだった。
今年の札幌は記録的積雪で、道や線路の脇に名残と、風の冷たさが頬に触れる。
もうすぐ芽吹き始めるだろう木々たちを眺めながら、旅の目的地まで心が先へ先へと急いでいるのを感じる。

待ち受けていたのは、期待を遥かに超える、気づきと変容だった。

リンクより
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27.恐れとは

前のアクティビティを、再度トライすることになった。
7人(4人+3頭)で馬場に入る。

馬は、過去を引きずることはなく、今目の前にいるその人を映し出す。
同じ環境だからといって、同じことが起こるとは限らない。
次に何が起こるのか、それは誰にも分からない・・・

先ほど、歌舞伎と対峙して恐れを抱いたのは事実。
その「恐れ」とは何か。奥深くにある正体は何か。

まだ頭の中が混乱していた。気づきが多かった分、身体が心が追いついていない。思考だけが先に走っていくようなそんな感覚だった。

馬場に入ると、足がすくむ感覚があった。
私は、まだ歌舞伎と触れ合えない。この場にいることしかできない。
何も行動が起こせなかった。ただただ、みんなの動向を見守るだけ。

その間も、恐れに対して思考が巡る。
相手を拒絶することによって、報復を得るのではと思ったかもしれない。
抵抗すると行為がエスカレートするのでは?と思った?

抵抗するほど、人格を否定されるような強い批判を受ける。
これは、分かりやすい「いじめ」や「モラハラ」の体験に限った話ではない気がする。
些細なこと、例えば、仕事の場面でも自分の意見を言うと叩かれるような感覚。そうであれば、飲み込んでしまおう。

家族との関係でも
友人との関係でも
仕事の場面でも

小さな自己犠牲を積み重ねていたのかもしれない。
奥にある本当の恐れは「人格否定」される傷だったのかもしれない。
存在してはいけない、そんな否定感を抱いていたのかもしれない。

でも、私が今、歌舞伎に近寄らなかったら、私は彼を拒絶して人格否定したことになってしまうかもしれない。
恐れというものは、傷つかないためにする感情の蓋でもある。

本当に怖かったのは「人格否定」と「存在否定」
自分がされることもそうだが、私が他者にすることも許せない。
だから私の仲間の定義では「尊重し合える」ことが必要条件だ。

勇気を出せるか?

自問自答を続けている中で、目の前では、愛さんが歌舞伎と対峙していた。
コミュニケーションはなかなうまくいかない。
それでも怯まずに歌舞伎に思いを伝える、愛さんの姿。
一触即発のシーンもあった。
それでも、最後は、愛さんと歌舞伎は意思疎通をして、抱き合っていた。

抱擁する二人

28.対峙

「大丈夫だよ!歌舞伎、わかってくれるよ!」

愛さんが、歌舞伎と触れ合ってから、こちらに向かって声をかけてくれた。
今、行かないと絶対に後悔する。その確信があった。

「私も行きます!」

そう宣言し、歩き出す。
どうやって対応すれば良いかは、Amiiさんや愛さんの動作から学んでいた。
きっと大丈夫、そう言い聞かせて、一歩ずつ、歌舞伎に近づく。

最初に対峙した時から、歌舞伎は何も変わっていない。
まっすぐ見つめて、戯れ合おうとする。
それに私は応える。
ここまでは、最初と何も変わらない。

恐い・・・

そう感じたコミュニケーションの時にどうするか?
口元ばかりを見るのではなく、目や耳を見てみる。
悪意はないことが分かっている、だから、しっかりと意思表示をしよう。

「痛い!やめて!」

そう言い、歌舞伎をぶん殴る。
これまでやったこともない程、強い力で表現する。
彼はやめない。

こちらの想いが伝わらない時はどうするのか?
人間のコミュニケーションでも同じだ。相手の靴を履く。
相手に伝わるように、もう一度全身で「嫌だ」と表現する。
より強い力で、出したこともない程の力で、殴る。

そこからは、彼と私の中で、せめぎ合いだった。

「どこまではいいの?」

と、まるで3歳の息子のように、許容範囲を探ってくるようだった。
その瞬間から、恐れは無くなった。むしろ愛おしさに変わる。

ああ、この子は無邪気に触れ合おうとしていたんだ。最初から。
恐れを投影されたと感じたが、そんなことはない。
私の無邪気さをしっかりと受け取って遊ぼうとしてくれていた。

自分なりのコミュニケーションが伝わらなくて、諦めて、拒絶したのは私だ。だから、心にワダカマリを感じていた。
後悔があったのだ。相手の要望を汲み取れなかったことへ。
言語は使えなくても、こうやって相手と向き合って、本当に望むものが何なのかを感じ取れば良かったんだ。

向き合うと、どうしても自我が出る。
私の場合は、恐れとして。
コミュニケーションが取れない相手への苛立ちや、諦め、自己犠牲として。自我がニョキニョキと出てきたその瞬間は、目の前にいる歌舞伎のことなんて無視していた。

きっと、人間界においても、私はそうしてしまっている。
最初に相手を受け入れ、聞き入れる。
なんでも相手の言う通りに応えてしまう。
息をするように、相手に合わせるのが得意だから。
本当は嫌なことも蓋をして、傷つきたくないから、人格否定されたくないから、存在否定をされたくないから。
だから、相手の要望を自己犠牲してでも受け取る。

嫌が積み重なると、限界がきてしまう。
心はボロボロだから。
そうすると、ようやく自分の感情が出てくる。
その自我が出てきた時は、もう末期だ。
自我に支配され、私のメガネを通して相手を見て、拒絶してしまう。
手遅れになる前に、事前に気持ちを伝えても良いはずなのに。

人間関係で悩んでいる根幹は同じだった。
毎回、限界になると、相手と衝突するというパターン。
それを防ぐ方法が、ようやく分かった気がした。

二度、歌舞伎と対峙して分かったことだ・・・

計り知れないギフトを受け取った。
歌舞伎への感謝と愛おしさが止まらなくなった。
最初の涙とは違う、温かな涙が込み上げてきた。

息子のように見えた瞬間

29.境界線

彼から学んだことは、文字に起こしきれないほどだ。
一つ、まとめるとしたら、この言葉が適切だと思う。

境界線

相手と自分との境界線。
どこまでは私の範囲なのか?
その範囲を侵入するならば、拒絶をしても良い。
どんな相手にもそう。受け入れるが、ここまで、という境界線を引く。
互いに傷つかないための、はっきりとした境界。

受け入れる=自己犠牲
この誤った認識を持っていた。
受け入れる能力の高さは、時に自己犠牲を伴っていた。
誰でも受け入れることが美徳だと思っていたから。

これまで、自分と他者の境界が曖昧になって混乱することが多くあった。
相手の痛みが、自分の痛みのように感じる。
相手の要望は、自分の要望のように感じる。
自他の境界が自分でもわからなくなっていた。

これは、私の「超共感能力/エンパシー」によるものだ。
自分が嫌と言うと相手が傷つく、と先回りして感情を汲み取って、相手を優先する。それが自己犠牲の正体

とはいえ、私も生身の人間であって、身体も心も傷つく。
限界が来るまではNOと言えなかった。
限界が来てから初めて拒絶する、しかも強く拒絶する。
すると、相手がパニックを起こす。それは当たり前だ。
これまでOKだったのに、急にNOと言われるから。

だから、最初に境界線を引けば良い。
行為に対して、ここまでは許容するという具合に。
そんなこと、頭ではわかっていた。
でも、ずっと出来なかった。それを、体験として突きつけられたのだ。

自分を守っていい。
時に、自分を優先してもいい。
それが結果として、相手のためにもなる。
NOと言っても、相手は離れていかない。
むしろ、境界を引くことが、本当の信頼関係を築くベースとなる。
お互いに心地よくコミュニケーションを取るために。
ベースが違うならば、一緒にいる必要はない。ただそれだけ。

ずっと課題だった自己犠牲、境界線。
この場で、この課題を突きつけられるとは思っても見なかった。

馬の前では嘘がつけない。

これは本当だった。
どんなに隠していても、馬が鏡となって、先生となって、私の本質的な課題を映し出す。

その覚悟を持って、この場に来たから。
それを私だけではなく、一緒にきた他の3人も同じ覚悟を持ってきたから。

本当に壮絶な体験だった。

次回に続く・・・

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