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旅をすると両極を知り、物事の本質や自分なりの答えが見えてくる

タイに滞在していて、日本にいるときよりも
思い通りに行かないこと、予想だにもしないこと
イライラすることも多く、喜怒哀楽は激しくなる。

自分にとって優しい人や都合良い人には「良い人」
とレッテルを貼り
自分にとって優しくしてくれない人や都合の悪い人には
「悪い人」とレッテルを貼っていく。

例えば、バスの運転手さんが「ここが降りるところだよ」と
運転席から降りて言いにきてくれたら「良い人」
「ここに行きたい」と言ったのに教えてくれない運転手さんは
「悪い人」なんて自分で勝手にレッテルをつける。


目の前の出来事は起きているだけなのに
自分の都合でジャッチして意味づけしていく。

自分に都合の良い出来事には「最高!」って思い
都合の悪い出来事には「最悪!」って思う。

例えば他の人は街に車で送ったのにわたしのときは送ってくれず
親戚を呼び「街まで送ってもらうのだから50バーツ払えよ」って
言われて「最悪!」と思っていたけれど
結局その親戚は送ってくれたとき「お金はいらないよ」と
受け取らず、洪水の中でわたしがバス停の待合室まで入るのを
見届けてから帰っていって「優しい!最高!」と思った。

出来事を「最悪」も「最高」も決めるのは自分自身だし
結局、出来事自体はただ起きているだけで最高も最悪もない。



小さな対極だけど、日本では横断歩道が歩行者優先なのに
タイでは車やバイクが優先だ。だから、全力で走ってくる車を
避けながら道を渡るし、道をわたるだけで生命の危機を
感じることもある。日本では横断歩道は生命の危機を感じることもなく
安全だ。

20代前半まで食に興味がなく、なんでも食べていたが
海外を旅するようになり、わたしはヴィーガンになった。

ヴィーガンの時、肉を食べる人、乳製品を食べる人、卵を食べる人を
否定していた。「ダメダメ!」と嫌悪しながら周りを見ていた。
その後、紆余曲折あり、自分では買わないけど誰かが作ってくれたものは
食べる、旅している時はなんでも食べる、など自分なりの軸ができ
ヴィーガン以外の人を否定することもなくなり
いろんな食の人をそれもありだよね、と受け入れられるようになった。

これもわたしがここ数年で経験した対極。

戦争はずっとダメだと思っていた。それが今回タイでイスラエル人と話していて
「戦争はするべきだ」との意見を持っていたことにびっくりしたと同時に
「そんな考えもありだよね」とも思った。戦争をしている人の立場に
なったこともなかったし、立とうとも思ったことはなかった。
「戦争をダメだ」という思いを持つわたしは戦争を否定していた。
でも戦争するにも理由がある。大切な家族を守りたいし
国を守りたいし、教育で戦争して守るものだと教えられてきた。
わたしが教育で戦争はダメだ、と教えられてきたように
戦争して守るべきだ、と教えられてきた人たちもいるし
実際に危険に晒されているなら、戦争という手段で守るしかないのかもしれない。

戦争に良い悪いもない。良い悪いのジャッチがあるから戦争が存在する。
両極がある。陰も陽も。善も悪も。精神も物質も。
両極を知ることで真ん中を知る。真ん中は本質であり、真実なのかもしれない。
悪は外側にあるのではなく、内側に存在している。内なる悪を見つけて認めた時
悪というものは消滅するのかもしれない。

そうやって両極を知る。両極を体験する。
豪華な暮らしと質素な暮らし。お金持ちと貧乏。好きなことができる人生と
できない人生。
知らず知らずにたくさんの両極の世界を体験した。
その結果、どちらが良いの二極で考えるのではなく
自然とその中心を見つけられるようになった。

自分の中に「正義」があると「悪」が存在する。だからこれが正しいと
自分が思っているならば、その反対側、対極に立ってみよう。
対極から物事を見てみよう。そうしているうちに、「本質」「真実」が
見えてくるし、「自分なりの答えや軸」が持てるようになってくる。

両極を知れば知るほど、幅が広ければ広いほど、物事はシンプルなのか
と思えてくるし、ニュートラルに立つ自分がいる。

そんなニュートラルにいる瞬間はすべての答えが見えるような気がするし
苦難や悩みはない自由で生きやすい空間にいる。

これがわたしが旅に出る理由かも知れない。
たくさんの対極に出会う。だからこそ、自分の意識が拡大していく。
ニュートラルに近づいていく。

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