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酒を飲まない世界

どれほど海外に長く住んでいても、やはり実家の玄関をくぐる瞬間の安堵は変わらないものだ。久しぶりに馴染み深い空間と親の顔を見ると、十数時間を超える長旅の疲れは全く吹き飛んで、晩飯が始まる。食卓には出前の寿司が並ぶことが多い。美味そうに酒を啜り、寿司に目もくれず話し込む父の姿が、一年前からこの日までずっと一人寂しく晩酌をしていたことを物語っているのである。父の元気な姿を再び見ることができて嬉しいのだが、少しばかり心苦しい。

父の晩酌が終わると、崩れ落ちるように布団へ転がり込む。それでも時差ボケで朝までぐっすりとはいかない。勿論一晩で話が尽きるわけはなく、最初の数日間はほとんど家を出ずに親と過ごす。数日経ってようやく友人と出かけるようになる。下戸なので、家の晩酌では付き合いでビールを一杯飲むくらいである。友人と出かけても、周りの半分以下の量を倍の時間をかけて飲み干す。

私は付き合い以外では一切酒を飲まない。

夜の街へ繰り出すと、普段は世界一大人しいはずの日本人がやけにうるさい。男も女も年齢も地位も関係なく、皆が酔って楽しそうだ。路上で吐くサラリーマン、寝転んでいる学生、地べたに座るふしだらな格好をした女子、これほど表と裏の差が激しい民族は他に目にしたことがない。見慣れた光景だったはずの日本の夜が、最近は全く不思議に見えてしまうのであった。

空港でも、缶ビール片手に搭乗を待つサラリーマンなんて日本でしか見たことがない。空港のフードコートで宴会を始めてしまうのも、ラウンジで酒を浴びるのも、機内サービスで飲んだくれてるのも、スーツを着た日本人ばかりだ。

日本人として認めたくないが、これは日本の外から見ると、完全に”病んでいる”光景である。

私が住んでいるここギリシャでは、大人が出かける時は必ずしも食べ物や酒が絡むとは限らない。ギリシャ人はコーヒーをこよなく愛す。煙草も愛す。おそらく日本以外で唯一アイスコーヒーを飲むのもギリシャ人だ。ギリシャの街並みには、日本のコンビニほどカフェが立ち並んでいる。ギリシャ人は人と会う時にはカフェに足を運び、たった一杯のコーヒーで何時間も話し続けることができるのである。

もちろんギリシャ人もたくさん酒を嗜むが、あくまで嗜むのであって、毎日飲んだり、吐くまで飲んだり、他人に飲酒を強要することはほとんどない。治安の差もあるかもしれないが、路上で酔い潰れるなんでもってのほかである。他のヨーロッパ諸国でも、日本人ほど日没を境に激変する民族を見たことはない。

なぜ我々日本人は、これほどまでにメリハリを付けずに酒を欲してしまうのだろうか。

もうしばらく前の体験だが、インドで過ごしたムスリムとの生活は今も鮮明に覚えているものである。それは人生で初めて、日常生活から酒が完全に排除された期間だっかたらである。

ムスリムの留学生は主に中東やアフリカの出身がほとんどであった。ほとんどが敬虔なイスラム教徒で、酒や豚肉はひどく忌避していた。そのため食事に関しても、豚肉を食べる際は外食に限り、自炊に関してもすべての原材料に豚や酒が含まれていないことを入念に確認していた。というのも、一度ケーキに含まれるゼラチンを見逃して可哀そうな思いをさせてしまったからである。これほどまでに厳格に教えを貫く人々との生活で、酒は完全に断ち切られたのである。

酒を嗜む代わりに、茶を嗜む人々が大半であった。喫茶に座って会話やボードゲームを楽しむ。喫煙者はシーシャも嗜む。また、単に食事を共にすることも多かった。酒を飲まなくても、時間を費やせばそれなりに距離は縮まるものである。また元から饒舌な民族ということもあって、話が途絶えることはなかった。またルームメイトに関しては、学校でも、買い物に行く時も、飯を食う時もいつも一緒であった。私生活や趣味から、宗教、政治、文化、歴史に及ぶセンシティブな話題まで幅広く議論を重ねた。こうして文字通り、同じ釜の飯を食う仲となったのであった。

それは、「酔った勢いで、つい…」という思いもよらぬ言動の心配が全くない生活でもあれば、そのような言い訳を作ることもできない生活であったといえる。また、飲み友達という排他的な人間関係の構築も、排除されることになる。そして何より、ストレスを酒で発散しない生活である。

この日々は、山あり谷ありの道のりではなく、真っ平の一本道を同じペースで突き進まなければならないような感覚に近かったのだ。これまで酒の嗜み方が大人であることの必要条件のような価値観の中で生まれ育ってきた自分は、酒が完全に干渉しない生活というのは決して子供じみたものではなく、むしろ難しいものであることを実感したのだった。

ただ、個人的にはこの酒を断ち切った生活の方が全く性に合うのだ。それはやはり、酔っていない精神状態の方が断然健全であるからだ。

仏陀はこう言い残している。

「また飲酒を行ってはならぬ。この不飲酒の教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてはならぬ。他人が酒を飲むのを容認してはならぬ。これはついに人を狂酔せしめるものであると知って。けがし諸々の愚者は酔のために悪事を行い、また他の人をして怠惰ならしめ、悪事をなさせる。この禍いの起こるもとを回避せよ。それは愚人の愛好するところであるが、しかし人を狂酔せしめ迷わせるものである。」

かなり厳しいお言葉である。しかしインドに住んでいた身としては、ここで引用しないわけにはいかないのである。

現代ではストレスを切り離された生活を送ることは、仏陀のように出家でもしない限り不可能だろう。我々は否応なくストレスと向き合い、対処しなければならない宿命にある。しかし、日本では「とりあえず酒」というヤブ医者の処方箋のような感覚が浸透していることに、私は違和感を覚えるのである。

この記事で、筆者がインドでしばらく痛い目に遭っていたことは十分承知いただけるかと思う。あの時、私はこのストレスをすべて酒にぶつけていたなら、とっくの昔に死を選んでいただろう。この挫折から私を救ってくれたのは、紛れもなくこの期間に過ごしたムスリムとの日々から得た実体験と気づきである。

つまり、私は問題から目を背ける手段を断ったのである。酒はストレスを発散はさせるかもしれないが、根本的な解決法にはつながらない。自分で対処できることは先延ばしにせず向き合い、他人の手を必要とする時は素直に助けを求めただけである。

地道にストレスの原因を一つずつ探し出して対処する、やはりこれが一番の近道なのだ。これはとても苦しく辛いいばらの道である。しかし、そこで酒に手助けしてもらう必要は全くなかったのである。自分と向き合ってくれる周りの人間の顔を思い浮かべれば、インドでの生活を思い返せば、なんとか頑張れそうな気持ちになったのだ。

日本人はまず、「ストレス発散=酒」の考え方を捨てる必要がある。

夏の地中海では、人々は時間さえあれは海へ行って泳いでは寝っ転がって太陽を浴びる。北欧では季節を問わず、バックパックを背負って外へ飛び出し大自然に身を浸すのである。もちろん酒は持っていかない。携帯もいじらない。つまり日本と比較すると、休日や空き時間の使い方に大きな差がある。勤勉な日本人のほとんどは、このストレス発散が全く下手なのである。

何をする時にも「酒が入ればなおさら楽しい」という意見もあるかもしれない。しかしそういう活動で健全なものは、私はたった一つの例も挙げることができない。つまり健全な活動とは、酒によってパフォーマンスが下がってしまうものだと考えると、とても判断しやすい。

どんな活動であれ、心身ともに健全な状態を保つ、これさえ守られていれば良いのではないかと私は考える。上に挙げたの例のように、身体を動かしたり、自然と触れ合う方法は手軽で健全である。

酒の代わりに、何か他の物や場所を選ぶというごく単純な選択肢が、日本人の習慣や考え方に必要ではないかと思う。酒以外に楽しみが思い浮かばないというのであれば、それは心がいかに貧しくなってしまったのか深く反省すべきである。ギリシャ人がコーヒーを飲むように、ムスリムが茶を飲むように、日本人もいつか心の豊かさを取り戻せるだろうと信じている。

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