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「嫌われる勇気」からもらったもの¦人生は自分のために生きていい

最近になって、やっと本を読み始めた。
読書にのめり込んだきっかけは、
アドラー心理学の「嫌われる勇気」である。

この書で1番影響を受けた言葉がある。
ユダヤ教の教えであるらしいが、
「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、一体誰が自分のために生きてくれるだろうか」
という言葉である。

「誰のために生きているのかといえば、
無論あなたのためです」
とバッサリ書いてあり、私は動揺した。

なぜなら、私は「自分のエゴのために生き、
行動する」ことに対して罪悪感を感じていたからだ。
人に優しくするのも、何をするにも
全部自分ためと分かっていたから、
自分に対して、「なんて自己中心的な人間だろう」と引け目を感じていた。
人から褒められても、全部自分のために
精一杯やったことだから、嬉しくなかった。
傲慢かもしれないが、感謝された方が百倍嬉しかった。自分に価値を感じ、自分を認め、
エゴが満たされるからだ。

中高の思春期時代、生死について向き合ったことがある。
「なぜ死にたいのか」を深堀りしていったら、
「生きたい」
「私は生きていると叫びたい」
「納得のいく人生を生きたい」
という深層心理へ辿り着いた。

その後「では、生きていいと
自分を認めるには、どうしたらいいか」
という思考へとチェンジすることができた。

そこで出た答えは、「自分が音楽の歌詞に救われたように、自分も誰かを救いたい」
「自分を救うために、誰かを救いたい」
という欲望だった。エゴだった。
私は、自分が心の奥底で何を欲しているのかを
知っていたから、自分の行動の全てに
誰かが「褒める」という評価する行為に
嫌悪感を抱いていた。
私からしたら、自分を認めるための、
当たり前の行動であるからだ。
私が欲しかったのは、褒め言葉ではなくて
「あなたのおかげで救われたよ」
「ありがとう」という言葉だった。

あの時、自己分析をしてから、自分が欲しいものと他者への行動の動機が、全部分かっていた。だから、そんな自分が、心底嫌いだった。
自分のことしか考えることにできない自分が、許せなかった。ずっと自分を、否定し続けていた。

そんな中で、アドラー心理学とユダヤ教の教えに出会ったのだ。
「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、一体誰が自分のために生きてくれるだろうか」
「誰のために生きているのかといえば、
無論あなたのためです」

私の脳内に、雷が落ちた。
「人生は、自分のために生きていい?」
「いいの?本当に?」
胸の突っかかりが、スっとする感覚がした。

「そうか、自分のために生きていいんだ」
「私は私のために、人生を使ってもいいんだ」
何だか許されたような、気持ちになった。

自分の人生に、自由が宿ったような気がする。

他者の気持ちや行動は、他者が決めることだから、変えることはできない。
でも、私の思考や行動は変えることができる。
「人のために、役に立つ人間になりたい」
「人の幸せを手助けする人間になりたい」
「人から感謝される人間になりたい」
そのために、私は試行錯誤と思考と努力を惜しまない。ただ、自分のために、真っ直ぐ突き進めばいいのだ。私の人生は、私のためにあるのだから。
その間に、誰かの幸せを見たり、感謝されたり
する他者への言動を感じ取ることができたら、
私はもっと幸せだと思う。
その日を夢見て、好きなように、やりたいように、自由に生きる。


そんなことを考えさせてくれた、本であった。
大切な言葉を受け取ることができて、本当に幸運だ。

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