【短編小説】冬の華
『くそったれが』俺が便所に入ろうとしたときだった。女の声で確かに『くそったれが』そう声が聞こえた。
中を覗くと掃除屋の若い女だった。『気が強くて可愛げがない』春に鉱炉番たちの間で噂になった女だった。俺と目が合うと
「なに見とるん? するん? せんのん? 」
女は聞いてきた。
「する」
俺がそう返事すると彼女は蛇口に繋いだ緑のホースを床において、外に出た。
「邪魔してすまん。終わった」
俺が外に出ると女はまたホースを持って掃除をはじめた。
鉱炉番は熱い、外でクレーンの作業をしとる人やこうして掃除をしとる人らは寒い。同じ島なのに場所によって夏と冬、気温が雲泥の差だった。気は確かに強そうだがまだ20代か? 世の中、テレワークやクールビズが話題になる時代、もっときれいな仕事すればえかろうに、何にむかって『くそったれが』親父みたいな台詞を叫んでいたのか、俺にはさっぱりと理解できんかった。
天気予報を見てあらかじめ、船が欠航しそうなときは、夜勤の人らがそのまんま延長で島に残って作業をする。どうやら明日は瀬戸内でも雪が積もるらしい。
「関さん、すまんけど、一旦、帰宅してから、また最終の便でこっちに渡っとってくれるか? 」
下請けの社長は、こういうとき、独身の俺を真っ先に頼る。
「ええですよ」
「ほんまに助かるわ」
「ところで、社長、あの掃除屋の女、どっから来ようるんですか? 」
「ああ、山木さんか? 山木さんなら、この島の社宅におる」
「社宅? 」
「ああ。どんな理由かわからんけど、元々、お母さんの再婚相手がここで働きよって社宅に来たんじゃろう。じゃけど、まあ逃げたんかな、彼女をおいて、二人で。でそのまんま、彼女はお母さんの仕事だった、トイレの掃除をしとるわけよ。詳しいことは外島組にきかんとわからん。ただ関、関わるんならまともな女にしとけ」
俺はその社長の『まともな女』という言葉に心のなかで舌打ちした。
仕事を終え、高速船に乗り、島に着くと駐車場に置いてあった車に乗って帰宅した。その前にスーパーに寄ると雪が積もるニュースを見たのか、夕方には菓子パンも全部売り切れで幕の内弁当がひとつと3個入った蒸しパンがひとつ残っとるだけだった。ペットボトルのお茶と幕の内弁当と蒸しパン、それにカップ焼きそばを買った。
俺が高校卒業する前に、母が癌で死んで、その3年後、父は木の剪定中に木から落ちて死んだ。鉛工場で働くことは楽な仕事じゃなかったけど、ひとり暮らしの俺には、スーパーであろうと仕事場であろうと自分以外の気配がすることが嬉しかった。
『くそったれが』弁当を食べ終えて布団に横になると今朝聞いた女の声を再び思い出した。スマホのアラームを夜10時にセットして目を閉じる。熟睡できるわけもなく、あっという間にアラームがなって、蒸しパンとカップ焼きそばをショルダーバッグに詰めてまた車に乗った。外は外灯の灯りだけで真っ暗だった。旅客船とは別の桟橋から最終の船で工場の島に渡ると待合所に今朝の彼女がいた。誰かを待っとったんか、船から最後に降りたのが俺だとわかるすぐに背を向けた。
「おい」
「なんですか? 」
「誰か待っとったんか? 」
「お兄さんに関係あります? 」
「いいや。ただ女一人でこの時間は危なかろうに──」
「母を待ってただけです。またどうせ男に振られたと言って帰ってくるだろうと思って」
「母ちゃんかぁ──」
「お兄さんは今から仕事? 」
「いいや、俺は待機。明日は雪で船が欠航するかもしれんけん、夜にこっちに渡って仮眠して朝から仕事。俺は家族もおらんし、まあ社長からしたら一番、頼みやすいけんな。そうじゃ、蒸しパン食べるか? 」
「ううん、もう寝ます。夜更けだし」
彼女が社宅に帰ったあと、俺はまだ眠れそうになかったけん、仮眠室にはいかず、そのまま待合所にいた。天気予報通り、雪がしんしんと降ってきた。雪女が窓からのぞきそうな夜じゃとおもいよったら、ほんまに窓の外から社宅に帰ったはずの彼女がのぞいてきた。窓の外から何か言っとる。口の動きは『た』『べ』『る』だった。はあっ? いくらなんでも突然、それはなかろう、俺は勝手に勘違いして首をふった。勘違いに気づいたのか、彼女は弁当が入ってそうな鞄を持ち上げてそれを指さした。
「お兄さん、なんかへんなことと勘違いしとったでしょ? まさか、私を食べると思ってた? 」
「すまん。一応、ここの中では、いけとるほうだと思うし、ありなんかなっと」
「それはないない。母親の色恋に振り回されてあっちこっち転校した私には、熱みたいにすぐに冷める恋愛なんて人生にいらんし」
「じゃあ、なんでこんなこと? 」
「だって、ここ寒いでしょ? 」
彼女が持ってきたのはスープジャーに入った豚汁と、レンジであっためた握り飯だった。
「へぇ─、見た目によらず、料理するんか? 」
「ああ、せんように見えるよね。しかも社宅で母を待ってるだけなのに売春してるとか、掃除の最中に入ってきて『やらせろ』とか、馬鹿だなぁって無視してたけど、たまに本当に嫌なことしてくる人がおるけん、『くそったれが──』って叫びよる」
俺がスープジャーをあけると湯気と共に味噌の匂いがした。甘い九州の味噌の味だった。
「スーパーの弁当ばっかり食べようるけん、ほんまに体に沁みるなぁ」
「でしょ? 母もね褒めてくれたんよね。特別な隠し味はないんじゃけど、マヨネーズでまず豚肉を炒めてね──」
俺が食べる横で彼女は豚汁の話をしよったら、夜勤の連中が休憩で待合所にやってきた。
「関さん? そういう関係だったんですか? 」
自販機の前で連中がざわつく。
「寒そうだったんで食べてもらっただけです。豚汁を。この人のことは名前も知りません」
彼女は語気を強めて言ったあと空になったスープジャーと握り飯を包んでいたラップを鞄に入れた。
「お前さ、他の男にはそんなことしたことないよな? 関さんのことが好きじゃけんじゃろう? 」
仕事で疲れて誰かに八つ当たりしたい連中の一人が彼女に突っかかってゆく。
「ああ、ああ、すまん。俺が彼女に惚れとるだけよ。わかったら、今後一切、彼女にへんなこと言うな。へんなこと言ったら、俺がでるけんな。まあ今日はコーヒー奢るけん、飲め」
俺は千円札を渡した。
「関さん、ごちです」
「ありがとっす」
連中が去ったあとで
「うちに惚れてるの? 」
彼女がまじまじと俺の顔を見た。
「いいや、全く惚れとらん。でも、ああでも言わんと奴ら、うるさいじゃろう。勘違いしてあんたに近づいてくる奴もおるかもしれんし、まあ一応、喧嘩が強いことではそこそこ有名な俺が惚れとることにすれば、厄介なことにはならんよ」
「なぁんだ──、はじめて告られたと思ったのに、残念」
「社宅まで送ってくわ」
俺は置いてあったビニール傘をさした。これが職場じゃなかったら──、雪だって降って最高のシチュエーションなのに。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
コンクリートでできた社宅の階段を一段飛ばして駆け上がってゆく。その姿だけは普通の母親を追っかける少女に見えた。それは草原でもなく夜更けの雪が舞う世界だったけれど。
待合所隣の仮眠室のベッドに横になる。口元から豚汁の匂いがしてくる。寒いからか、久しぶりに女と話したからか、なかなか眠りにつくことができず、ガラス窓にうつる雪を寝転がって薄明かりの中見ていた。
いつの間にか眠って、気がつくと枕元のスマホから朝7時のアラームがなった。外は雪景色ではなくアスファルトが少し濡れとるだけだった。出勤してきた社長が
「関さん、すまんかった。あまり寝れんかったじゃろう? 今日は半ドンでええよ。3時になったらあがってくれ」
「わかりました」
作業着に着替えたあと、鉱炉番をしている夜勤の連中と交代した。
「関さん、掃除屋の姉ちゃんとできとんなら、俺らにもちゃんと言ってくださいよ。まじでびっくりしました。関さん、女嫌いかと思いよったんで」
「ああ、まあな。とにかく彼女にへんなことはせんでくれ」
「じゃあ、あがります」
「お疲れ」
外は凍えるほど寒いというのに、溶鉱炉の前にくると燃えるように熱い。
「この工場がストップしたらどうなるんです? 」
以前、社長に聞いたことがある。
「鉛なんて知らんかったら、なくても生きていけそうなもんじゃけど、蓄電池じゃし、弾丸やら蛍光灯の原料でもあるけん、まあ工場がストップしたら一年後は他の業界があたふたするわな」
結局は誰かなんよな。やりたくないことをやるのは。
外は震えるほど寒いというのに作業着の下の下着がびしょびしょになるほど汗をかく。油断すると冬なのに熱中症になりそうなほど。
「関、3時じゃあがれよ」
社長から声をかけられて俺はシャワー室でシャワーを浴びたあと待合所に行った。彼女はちょうど待合所の中にある便所にトイレットペーパーを運ぶところだった。
「お疲れさん」
俺が声をかけると
「もうあがり? 」
「ああ」
「ええねぇ、私は4時まで」
「4時? 」
「そう4時」
「なら待とうか? 豚汁のお礼にそばかお好み焼きでも奢るけど」
「えっ? 島に連れて行ってくれるん? 」
「ああ」
「じゃあ、まっとって」
彼女はそういうと、また次の場所へトイレットペーパーを抱えて行った。一旦、社宅に帰って着替えてきたのか彼女が待合所に来たのは4時半だった。
「えらいまた、雰囲気が違うねぇ。まるでデートみたいじゃな」
「これはどう考えてもデートでしょ? 」
「熱みたいに冷める恋愛なんて人生にいらん、って昨夜いよったのは嘘だったんか? 」
「はあっ、お兄さんはほんまに雰囲気ぶち壊すね。まあええよ。そば食べに連れて行って」
普段は作業着でマスクして化粧っ気もなく便所掃除しとる彼女がマスクを取って化粧してGジャンに黒のワンピースにグレーの大きめのストールを羽織って船に乗ったもんじゃけん、他の職場の男たちが船の中でざわついた。しかも俺の横にぴったりと太腿をつけて座っとるし。
「あの子、トイレ掃除しとる子? なんか雰囲気違わん? 」
俺にもその声は聞こえてきた。その声を無視して彼女は
「島もはじめてじゃし、そばなんて久しぶり、楽しみ」
隣で子供みたいにはしゃいどった。
船が島について、俺は食堂に彼女を連れて行った。ここで彼女は俺が言う中華そばをざる蕎麦と勘違いしていたことに気づく。
「そばっていうけん、ざる蕎麦かと思いよったのに──」
「すまん、中華そばのことよ。でもな、なんでもネットでも話題になってわざわざ名古屋の方からも食べにくる中華そばじゃけん、旨いと思うわ」
食堂の中に入ると、俺はショーケースから巻きずしといなり寿司をそれぞれ一皿ずつ手に取った。そして、中華そばを2つ注文した。
「なんか期待はずれじゃったら、すまん」
「ううん。大丈夫。そもそも、こうやって誰かとご飯食べることなんて久しぶりだし」
「お待たせしました」
チャーシューともやしとメンマがのった見た目は本当に普通の中華そばじゃけど、これがほんまにうまい。彼女はテンション低めで口元にそばを持っていったのに、一口食べると口にそばを持ってゆくスピードがあがった。
「なにこれ? 美味しいんですけど? 」
「巻きずしといなり寿司も食べてみ」
「えっ? ほんまに美味しいんですけど? 母さんが戻ってきたら、うち、ここで働きたいぐらい美味しい」
食べ終わったあと、店の外で彼女は深々と俺に頭をさげた。
「めちゃくちゃ美味しかった。ごちそうさまです」
「ああ、じゃあ、桟橋まで送るわ」
「と、泊まったらだめですか? 」
「はあっ? どこに? 」
「お兄さんところ」
中華そばを食べて体が少し温もったとはいえ、一気に熱った。断る理由も泊める理由もどっちも浮かばんかった。
でも
「あんたも待ちくたびれたんじゃな。ええよ」
俺は助手席のドアをあけた。
あの冬の夜から何年経っただろうか? 彼女、山木紗衣(やまき さえ)の母はまだ帰ってこない。そして、母親が帰ってこないまんま、社宅を借りたまんまで、関 紗衣に名前を変えた。
相変わらず、時々、『くそったれが』と便所で叫びながら、同じ島で働いてる。その『くそったれ』が時々、俺のことだとも知りながら。
「母さんね、学歴がないし、履歴書とか書くの面倒くさい人だから、ここのトイレ掃除が好きって言ってた。私の天職だって。だから、私は母さんがいつ帰ってきてもここで働けるようにそれまでは誰にもこの仕事は譲らない。でもはじめて私をここから外へ連れ出そうとしてくれた和典(かずのり)さんのことは母さん以上に大好き」
そう言って猫みたいに毎回背中から抱きついてくる。
そして、紗衣が夫婦茶碗だと選んだのは、さくらんぼの絵が描かれた昭和レトロな茶碗だった。
「私はきっとこの昭和から抜け出せないようなここの空気が好きなんよ」
時代はすでに令和なのに、相変わらずコンビニはないし、夜8時になれば外灯の灯り以外は真っ暗だ。
仕事だって夢じゃない。それでも、多分、もったいないぐらいの幸せなんだと思うわ。
何がもったいないかは、よう説明せんけどな──。
冬の朝、まだ暗い中、起きて炊飯器からご飯をどんぶりにうつして、握り飯をつくる紗衣の後ろ姿に眠気が飛ぶ。
繰り返される日々の中で何かが少しずつ動いてることが怖くもあり、俺が起きたことに気づいた紗衣が淹れてくれた珈琲が入ったマグカップで手を温める。終わるのになぜ人は人を掴むのだろうか……、溶鉱炉は相変わらず燃えていた。
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