見出し画像

井上荒野『あたしたち、海へ』(新潮社)を読んでイジメについてちょっと考え、息苦しくなる

イジメって何、と時々思う。
自分ではあまり他人にくっつきすぎたり、つるんだりすることなく、他人を無闇に攻撃したりもしてこなかった、と思っているが、勿論自分でそう思っているだけで、そう思われてない可能性もある。どこかに、わたしにいじめられたとか阻害された、とか思って恨んでいる人がいるかもしれない。
昔、重松清の『ナイフ』を読んだとき、苦しくて泣きそうになったことがあった。当時の重松清はイジメについての小説を書くことが多かった気がする。
小説なんだけれど、世界のどこかで同じようなことが起こっているに違いない、と思わされ、その当事者が何を考えているのだろう、と思うだけで苦しくなる。
事実の方が小説より恐ろしいこともあるだろう。人はどうして、半ば本能的に、集団の中の誰かを阻害したり、阻害することで残りの人の団結を強めたりするんだろう。そして、そういう行為をとった人は、長じてどんな大人になるのか。若い時に自分がイジメをしていたことは、都合よく忘れてしまうのか、記憶の中で美化するのか、事実として受け止め、でも反省しないのか。
出来るだけ、イジメが絡む物語には近づかないようにしているが、久々にその葛藤を感じさせる小説を読んだ。
井上荒野『あたしたち、海へ』(新潮社)。
井上荒野は前にもイジメに絡む物語を書いていた気がするが、見つけられなかった。気のせいかな。
今回の本は本当に息苦しい、女子校のクラスでのイジメを克明に描く。
私立の中高一貫の女子校。中1の途中で、クラスのムードメイカーの提案に抵抗した少女がイジメに遭い、退学・転校を余儀なくされる。担任も彼女を救えない、というか救わない。
もともと孤立してた子ではない。近所に住んでいて、一緒に中学受験をして、自転車で一緒に通っていた友達が2人もいた。同じミュージシャン(リンド・リンディという架空の歌手)を愛好する仲間でもある。住む家の方向がばらばらな場合が多い私立中学で、同じ小学校から3人も同じ学校、同じクラスに上がっているなんてのは極めて珍しく、立場的には彼女たちの方が主流派になってもおかしくない状況なのに、実際はダンス部に所属している派手で主張の強い少女がクラスを牛耳り、彼女に抵抗したことで、海という名前の少女がイジメの標的となり、なまじ自転車で通えるような近さだったので、住む場所まで変えて、転校することになる。残った2人は、表面上、穏やかに過ごそうとしているが、クラスのリーダー格の少女は、海へのイジメの手を緩めない。転出・転校先までイジメの触手を伸ばす。それに加担させられう2人。読んでいるだけでぞっとし、現実にこんなことが起きていたら、自分だったらどうするのだろう、と考える。
章ごとに語り手が変わるので、イジメた側の少女のモノローグも入ってくる。それを読む限り、同じクラスだった少女を執拗にイジメ続けることで、彼女自身がカタルシスを得たり幸せになったりする訳でないことは察せられる。では、そのイジメの目的は何なのか? 彼女のイメージする予定的調和のために必然のものだと言いたいのか。
じわじわとイジメに加担させられ、そこから更にイジメの新たなターゲットとなりつつある有夢(うむ)と瑤子がこの小説の主人公で、二人は、病死したリンド・リンディが最後に発表した「ペルー」というアルバムを聴き、ペルーに行きたいと憧れる。
彼女たちにとって、ペルーはだんだん一つの符丁となっていく。雑誌連載時のこの小説のタイトルは「ペルー」だったのだが、単行本になるときに『あたしたち、海へ』と解題された。ペルーに行こうとすることを小説を読み進める中でじわじわと感じさせようとしたのだろうか。
イジメそのものは解消されないが、脱出口が提示され、物語は終わる。
イジメに苦しむ人すべての前にペルーが提示されることを強く願う。
というか、こんなにも同調圧力に苦しまなくてはならない社会はどうにかならないのか、と、作者が思っており、読んでいるわたしも思っているのに、どうにもならない現実があるらしいことが悔しく、悲しい。
この小説にも色々な突破口への手がかりがあった。ひとつでも多くの出口を見つけ、傷つけない、傷つかない人が一人でも多くなればいいのに、と思う。それって、この世から戦争がなくなりますように、と願うことと同じくらい難しいことなのだろうか。
#読書 #読書感想文 #井上荒野 #あたしたち海へ #新潮社 #いじめ #ペルー #重松清 #ナイフ

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?