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僕も、きちんと愛されて生まれてきた。

これまで記事に書いてきた通り、6月に無事子どもが生まれた。約3200gの、元気な男の子だ。「女の子がいい」と生まれる前はさんざ思っていたのだけれど、いざ生まれてみると息子にメロメロ。これが女の子だったらどうなっていたことか。仕事も何もかも放棄してべったりしかねなかっただろう。

ただ、生まれる前まで、僕には漠然とした不安があった。それは「自分の子どもを愛せないのではないか」という不安。なにせ僕は、コンプレックスだらけの人間だ。そんな僕のDNAを受け継いだ人間なんて、存在しないほうがいい。本気でそう思っていた。だから30代になるまで、子どもがほしいと思うことがあっても、「子づくり」をすることには消極的だった。

別に壮絶な生い立ちだったわけじゃない。一般的な、中流家庭の育ちだ。虐待を受けたわけでも、毒親に育てられたわけでもない。多少の軋轢はあれども、何不自由なく両親には育ててもらった。けれど、どうしても自分という人間を愛することができなかった。人生の中で、少しずつ自己肯定感が損なわれるような経験が積み重なった結果なのだ。

僕の子どもも同じような人生を歩み、やはり自己肯定感の低い人間に育ち、生きづらさを感じてしまうのではないか。そう思うと僕は、妻のお腹のなかでむくむくと大きくなってゆく生命に、人知れず罪悪感を感じざるを得なかった。こんな親でごめん、生んでしまうことになってごめん、と。

しかし息子が生まれて僕に芽生えた感情は、もっと別のものだった。とにかく小さな息子が愛おしいのだ。お金だとか出世だとか、そんなことなんてどうでもよくて。ただただこの子が健やかに生まれ、育ってくれるだけで、日々僕は世界で一番の幸せ者なのだと感じることができる。

僕だけが嬉しいわけでなく、当然妻も息子の誕生に涙した。僕の親や姉、仲の良い友人、妻の両親や兄弟などの親戚に至るまで、息子の誕生をめいめい心から祝福してくれた。祝福してもらえることが、とても嬉しかった。

そう思った瞬間に、僕は自分の親に思いを馳せた。父も母も、僕が生まれたときに、こんな気持ちだったのだろうか、と。ただただ子どもの無事を願い、一挙一動にそわそわしてふりまわされて、でもどこかそれが幸せで。きっと、周りに「よかったね」「おめでとう」と祝福されて。

僕も確かに周りに祝福されて生まれてきたのだと、なんの根拠もないけれどそう信じることができた。僕はこの世に生まれてきて良かった人間なのだと、30年以上経って初めて感じることができたように思う。

僕の場合、これまでの人生の意味と、これからの人生を生きる意味を、子どもに教えてもらった気がした。コンプレックスが消えたわけでもない。自己肯定感が醸成されたわけでもない。自分を好きになれたわけでもない。ただ、今までよりほんの少し、明日を強く生きていく自信がついた。

#子どもに教えられたこと

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