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Guitar0928

月に誘われて練習へ出た。一時期涼しくなったかと思ったのにまた蒸し暑く、なんだか騙された気分になった。

前回、"Affirmation"に向き合ってみようシリーズ(?)を始めたばかりなのに、はやくも道草をしている。
というのも、次の課題曲(?)"Chained to you"は速めテンポのエイトビート&ダレンの乗せにくい英語で、とても一回では捌ききれないと踏んだからで、私は野鳥なわけだし、無理矢理進路を定めるのではなくその日止まりたい木に停まればいいだけだと言い訳をしながら、Coccoの「」ソングをさくっと歌って、残りの時間で"Chained to you"のエイトビートの練習をすることにしたのだ。

しかし、ここにも落とし穴があった。選んだ「鳥の歌」には、沖縄語が使われていたことをすっかり忘れていたのだ。元々短い曲で、沖縄語の部分はよくわからなかったので、好きなんだけど、口ずさむ時にはわかる部分&残りは鼻歌やぼんやりで歌っていた。
今回改めて歌詞を見ながら聴き直したんだけど、沖縄語の音で書いてある部分と、歌詞的には標準語で書いてありながら沖縄の音で歌われている部分があり、後者で大混乱(前者はいつも通り、読みあげればいい)。。

なんとなく、振り仮名を振ってしまうのは違う気がして(そのほうが圧倒的に楽なんだけど)、端末で音源を流しながらギターで弾く部分の確認&沖縄の音の確認→音源と一緒に弾いて歌うってしていたんだけど、その場に鳴っている音があった時には同じ音で歌えていたはずなのに、そこから「覚えた気がするぞ!」って自分の頭にしまって引き出した時に違うものになってしまっていた。。またしても頭の限界である。そして音楽の中の、ことばという意味での音は、やっぱり私にとっては文字の力を借りなくては定着させにくいものなのだろう。

このように、例えば音が違うのは聞き取れないからではなく記憶の問題だし、ギターのリズムがおぼつかないのもリズム感が無いからではなく技術が追いついていないからである。
表層だけで短絡的に判断を行うと本質を見失う。それは色々な場面で起きていることである。「それっぽいもの」「見えやすいもの」以外に目を配ることはより多くの労力を必要とする、一見効率的ではないことなのかもしれないけれども、しかしその一方で、そのような背景や可能性を切り捨てたことで、本当はあるのに無視され歪んでしまったものこと、あるいは活かせなくなってしまった存在が社会の中にたくさん眠っている。ちょっとの手間や工夫で開けるものがずいぶんある。非常に勿体ないと思うよ。

話を戻すと、そんなわけで帰宅して確認したら違う音になってしまっていて、沖縄の方々には本当に申し訳ないんだけれども、いつも通り、その残念なところもそのまま記録として載せます。。

一応頑張って覚えようとはしたんだよ、、Coccoの他の歌で「星」とか「一」、あと「ちゅら海水族館」で「ちゅら」とかは認識していて、その他のところは母音がちょっとずれるんだよなーこんな感じだったかなーと歌っていたんだけど、、ずれ方が違った。。

もしギターが上手くなってギターパートを弾けるようになったらまた歌い直したいな。今回はギターの核になっている音のみを抽出した簡略版で間奏も省いて歌った。

ーーー備忘録ーーー(文字で残したほうが記憶に残る)
助詞の「の」→母音を変えなくていい
「虹の"じ"」→子音を変えなくていい
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沖縄については、前も書いた通り非常に不勉強で恥ずかしいんだけど、知りたいと思っている。Coccoの抱えているものも多くは沖縄という土地に結びついているはずだし。底抜けの明るさとその対にある闇。
私のものと形は違うけど、沖縄の歴史も絶望で、いくらそうしたくても逃れようも、現実や未来を簡単に変えようもない。
「する」の結果ではなく「である」だけで翻弄されるのは理不尽ではないか。
どうしてそんなものを抱えて生まれなければいけなかったのか。背負わされなければならないのか。

何故かダレンのことを考えるとCoccoが浮かび、Coccoのことを考えるとダレンが浮かぶ。皆、形は違うけど絶望を知っている。だからきっと共鳴するんだろう。


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