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Guitar1023

今回の「その日の歌」はハンバートハンバートの「虎」。月がきれいだなって思って浮かんだ曲。
曲中に月は全く出てこないんだけど、この曲は中島敦の「山月記」をふまえて作られていて、「山月記」には虎になってしまった(元人間の)李徴が月に向かって咆えるというシーンが描かれている。
ハンバートハンバートは、くるりが昔関わっていた「みやこ音楽祭」(学生が京都にゆかりのあるアーティストを中心に呼んで行っていた音楽祭、初回は京大の西部講堂が使われたりしていた)に出演したりくるりと一緒のライブに出たりで知った。「虎」は多分代表曲の一つで、PVには又吉直樹さんが出演している。ちなみに又吉さんはくるり好きで有名だしそれ以外にも聴いているアーティストが私と重なっていることが多い。

一番は原キー、二番はオクターブ上げで歌った。やっぱり原キーのほうが曲に合う。けど私には低くて非常にきつい。
ダレンの曲のほうが歌いやすいなあ、低いのきついわ声出ない、、と原キーを何度も何度も歌い直して喉が低音モードになってきた後でオクターブ上げを歌ったので、本来の快適音域が(楽になった分?)だいぶぞんざいになっている。快適音域はそれ故に練習しなかったんだけど、少しは慣らしておけば、というか少なくとも気を抜かずに歌えば良かった(寒くて歌い直さずに帰宅してしまった、聴き直したらピッチも不安定だし虫が来たのかキョロキョロしてたっぽくて変なところで音量が変わっているし色々雑過ぎた)。。

さて、これまで低くてきつい音域が含まれる曲を色々歌ってきて気付いた傾向には以下のものがある。

・声の低い女性の女性の歌よりも声の高い男性の歌のほうが歌いやすい(後者は基本的に音域が下から上に向いていて特にサビなどで私の快適ゾーンに入ることが増えるから、前者は全体的に低くて高音で歌い上げる箇所が少ないから私が一息つける場所が出てきにくい)
・音の移動幅が大きく細かな動きが多いもののほうが歌いやすい
・同じ音域であってもその音の立ち位置というか周辺との結びつき方によって出しやすさに大きな差が出てくる(低い音域が連続している時は非常にきつい、低い音域があってもその後快適ゾーンに向かう時は気持ちが楽)

現状の私の音域は、低いファ位まではつらいけどまあなんとか出せる、ミやレは出ればラッキー(安定的には出せない)、真ん中のドからミくらいは普通に出るけど低い声の出し方と普通の声の出し方の切り替えが微妙なエリアで歌いにくい、ファは普通、ソから上は快適ゾーン、そんな感じかな。上がどこまで出るのかはそこまで高い音域の曲を歌っていないからわからない。でも前回「ひばり(Cocco)」を歌った時には発声練習も無しに高いソは普通に出た。(やっぱり練習場所が外だし、発声練習や特に高音というのは控えざるを得ない。)

「虎」は低いファから真ん中のレまでと非常に限られた音域で連続的に歌われていて、原キーだと曲中の高い音のポイントが私には低い。音が上がってはいるんだけど、その位置は私にはまだ低いものだから声の出し方も切り替えられなくて、そうすると低い声の出し方でそれにしては高い音域を出すことになり、非常にきつい、し実際ふらついてきれいに出ていないしピッチが不安定。
ダレンの歌は低い音域もあるけど高いポイント向かっていたり情報量が多くて音の動きも多かったりするから低い音のつらさが紛れやすいのかな。

さて、「山月記」は高2の国語教科書に載り続けている定番教材。中島敦は中国の「人虎伝」をベースに彼の視点で「山月記」を書いた。
私は主人公李徴は機能不全家庭出身者の設定ではないかと思っている。
非常に優秀で若いうちに科挙にも通り、国家官僚(のはじめは下っ端)になるものの、プライドが高くなかなか気難しい性格や詩人になりたいという想いから退職し、ひたすら詩作にふけるようになった李徴。しかし一向に結果が出ず困窮し、退職から数年後「妻子の衣食のため」地方官僚として再就職をした(ランクダウン)。
数年のブランクの間にかつての同輩は順調に出世しているし、中でも見下していた鈍物共の命令をきかなければいけないことが彼を苦しめ追い詰め、そして一年後、出張中に彼は発狂したとされる。夜中に顔色を変えて起き上がり、意味不明なことを叫びながら闇の中へ駆け出していき、そのまま戻ってこなかった、捜索をしても見つからなかったし李徴のその後を知る者は誰もなかった、と。

彼はいわゆる地域の神童的存在だったのではと思う。そしてその背景には一般的には彼をそうさせる先天的、加えて後天的要因があるはずで、多くはが「そういう家」である場合が想定される(具体的には親もしくは代々同じような経歴を持っているとか、資産があり文化資本が潤沢で教育やその関連の時間にお金を使えるとか、加えて彼を科挙に急き立てる等の環境)。
勿論諸々揃っていなくても天才が現れることはあるけれど、ポッと出の「何故ここにこの逸材が?」みたいな、無頓着大らかに育てられた人間であれば、彼のような気難しい感じにはなっていないはず。
それが、作中のどこにも、彼の生育歴に触れられている箇所が無い。これは結構不気味。加えて、彼が「妻子の衣食のために」再就職したこと、虎として袁サン(国家官僚時代の、李徴にとっては数少ない心を許した「最も親しい友」)と再会した際、妻子に(人喰い虎になった等ということは伏せて)自分は死んだと伝えてほしい、彼らの生活を支援してやってほしいと(順調に出世している)袁サンに伝えたことは確かに記述されているんだけど、私にはこれらがどうにも形式的なものに見える。

散々奇人変人の人嫌い扱いされている&本人も「人との交わりを避けた」と言っている李徴のことだから、情熱的なロマンス等とは無縁だろうし、結婚は政略結婚なのか見合いかだろう。これは彼が(親や一族)の支配下で、の存続、そのための結婚、子どもを作ることを強いられたか、暗黙のうちにそうせざるを得ないというプレッシャーを感じていたからか、その結果だと思われる。
しかし、そのような家父長的家制度もしくはその価値観下にありながら、退職後再就職するまでの間にも、そして彼が行方不明になってからの母子の困窮が記述されているということは、彼は生まれ育ったとの関係が切れているか、からの支援が受けられない状況であると推測される。自らを切ったのか、あちらから絶縁されたのかは不明だけれども、すすんでを出たのだとすれば、呪縛束縛から逃れようとして、絶縁されたのだとすれば、おそらく詩人になるため国家官僚を辞めたこと、の意向に背いて我が道を模索しようとしたことがきっかけだろう。
この辺りの情報がすっぽり抜けていることが本当に不気味なんだけど、李徴の口から(妻子に対しての支援は請いながら)両親への言及が無いことも、彼の立ち位置を示しているように思える。
もっとも、妻子についても再就職をしたり支援を請うたりと形式的には配慮をしているようにも見えるんだけど、私にはどうにも、古い家父長的家制度で顕著な「メンツのため、体面を保つため」のことのように思える。だって、本当に妻子が愛しくて深く繋がっていた、良好な関係や愛着が築けていたのなら、一人で発狂して虎になるなんてことはないのでは???

あと、李徴の独白の部分はなかなか面白くて、色々引っかかるところがあるんだけど、山月記、野獣、この辺りは現行のトラウマ的事象とも関わっていて、書こうと考えていたら具合が悪くなってきたので、期が巡ってきたら追記するか、別立てで投稿するかにしようと思う。

気温が下がってくると身体が年末を意識し始める。暗黒の時期。味わわなくて済むのはプラス。マイナスよりゼロはプラス。


栗が食べたい時期。竹裡食べたかったな、、そう言えば竹裡の中の栗って月みたいだ。

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