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Guitar1015

相変わらずのモードなので今回もソング。そして前回同様、直接のではない。
今回の「その日の歌」は荒井由美(松任谷由美)さんの「ひこうき雲」。空、ひこうき雲に重ね、若くして空に還ったお友達を想う曲。飛行機ってっぽいよね。

この曲は2009年末にフジファブリック志村さんが亡くなってしまった後、時々降ってきて口ずさんだりしていた。

あまりに突然、あまりに若い。つい10日ほど前にライブでも姿を見たばかりなのに、あと数日でまた会えるはずだったのに、何で?どうして?よりによってこんな時期に。
いくら泣いてもいくら考えても現実が変わることはなく答えなんか出なかった。しばらくまともにフジの曲を聴くこともできなくなった。

けれども、結果追悼ステージになったCDJ(年越しフェス)や翌年開かれたお別れの会に参加したりしつつ、変わることのない現実に嫌でも接さざるを得ないと突きつけられ続けるうち、こんな風に思うようになった。

あまりに才能があり魅力的だからきっと天が志村さんを欲したんだ。私が今後の志村さんの曲を聴くことはできないしそれは本当に残念なことだけど、私は志村さんの世界にオンタイムでたくさん触れ、多くのものを直接受け取ることができた。そのことは変わらないし、時を超え名作は残り育っていく。志村さんの作品も私の中で、あるいは変化する社会の様々な文脈の中で、形を変えながら生き続けるだろう。だから、これは「終わり」ではない。私が「終わり」にしなければ、繋がれる。

勿論寂しいし悔しい。年上だった志村さんの年を追い越して生き続けている自分、志村さんが見なかった311、312、戦争、コロナ等、そういう中で志村さんならどんな曲を描いたんだろう、聴きたかったとも思うけど、きっと志村さんも消耗するタイプだからつらかったろうな、苦しまずに済んだのはある意味よかったとも言えるのかな、なんて考えたりもする。志村さんが結婚をしたら激しく動揺してお相手に嫉妬?したりしていたかもしれないけど、ライフステージの変化と共に姿を変えていったであろうその世界を見たくもあった、いや、やっぱり見たくない、まだ若くて美しかったあの容姿が老化していく様を見てみたかった、いや、見たくない。でも30代以降の志村さんの視点、風景には触れていたかった。

とにかくぐちゃぐちゃだし答えなんか出ないんだけど、私の中では志村さんは生きて存在し続けている。そこにただ新しいものがないだけ。

ユーミンさんの「ひこうき雲」は、去りし日々・大切な相手を思い返しながらも感傷的になりすぎることなく、決して戻ることのない日々と現実に淡々と向き合っている(歌い方も飄々としている)感じがフジファブリックの「赤黄色の金木犀」と似ているなと思う。

「空に憧れ」「ただひとり」「何もおそれない」で「舞い上が」った、「空を掛けてゆく」あの子、その命。
その子の見ているものや気持ちについては「今はわからない」「ほかの人にはわからない」と、「わからない」が繰り返されている。
そしてその後に続く「けれどしあわせ」はどういうことなんだろうと思う。これは語り手の視点?「あの子」の視点?「けれどしあわせ(だといいなと私は思っている」的な語り手のものとも「あの子」のものとも言える感じなのかな、とも。

他の人のことはわからない、し、自分のことだってわからないんだよ。勝手にわかったつもりになって思い込みで決めつけて思考停止で押し付けるのは害悪でしかない。良いこと、正しいことだって絶対的ではない。地域や文化、時代によって移ろいゆくものだし、かつての「善」「当然」が今はひっくり返っていることなんていくらでもある。コロナだってそう。ノーガードの行方が数十年後どう実を結ぶことか。
わからない、完璧はないを前提に、どこまで把握できる部分を増やしていけるか、何がより妥当な道なのか、適切な対話や検証と共に根気強く向き合っていくことが大切。手間はかかるけど、そうすれば持続可能な関係性が、自分とも他人とも築いていけるようになる、可能性が上がる。
これが私の基本スタンス。「である」の世界の人間達にはすこぶる癪に触るらしいけど。


ちょっと葉っぱが色付いたなと思って撮ったけど、暗くて写真には色が出なかった。。

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