敦

言葉の檻のなかで吼えている獣 中島敦の詩的遍歴 #1「古譚」のなかの「山月記」

中島敦の遍歴

ある時はヘーゲルが如万有をわが体系に統べんともせし
ある時はアミエルが如つゝましく息をひそめて生きんと思ひし
ある時は若きジイドと諸共に生命に充ちて野をさまよひぬ
ある時はヘルデルリンと翼並べギリシャの空を天翔けり
ある時はフィリップのごと小さき町に小さき人々を愛せむと思ふ
ある時はラムボーと共にアラビヤの熱き砂漠に果てなむ心
ある時はゴッホならねど人の耳を喰ひてちぎりて狂はんとせし
ある時は淵明が如疑はず天命を信ぜんとせし
ある時は観念(イデア)の中に永遠を見んと願ひぬプラトンのごと
ある時はノヴァーリスのごと石に花に奇しき秘文を読まむとぞせし
(中島敦「和歌(うた)でない歌」より)

中島敦と言えば、だいたいの人が高校二年生のときに読む「山月記」でその名を知ることになりますよね。それで、その難読漢字の多さと堅苦しい文章に辟易することになるのが通例なわけで、そのうえ中国古典の「人虎伝」をもとにしているということを国語の先生から示されて、「李陵」なんていう作品もあるんだってことまで習えば、「中島敦=中国古典っぽい人!」という印象が根付くわけです。が、ご覧の通り、この短歌とも言いがたい短歌群を読めば、彼が影響を受けたのは中国古典ばかりではないし、むしろ、積極的に西洋思想をとりいれようとしていたくらいのことは見ればまずわかりますね。

ヘーゲル、アミュエル、ジッド、ヘルダーリン、フィリップ、ランボー、ゴッホ、プラトン、ノヴァーリス……続きを読んでいくとスウィフト、ヴェルレーヌ、フロイト、ゴーギャン、バイロン、ワイルド、ヴィヨン、ボードレール、パスカル、ゲーテ、バッハ、クライスト、バルザック、ベートーベン、カント、スピノザ、ヴァレリー、モーツアルト、アナトール・フランス……と、もう数えきれないほどの西洋の作家、詩人、哲学者、音楽家、芸術家の名が出てくる。

うーん、いまほど流通も発達していない時代に、よくぞここまでのものに触れてきたなあとためいきがでますね。それも、彼の人生は三十三年。僕であれば今年死ぬ計算になるから、ああ、自分はそんなに巡ってこれなかったなあと落胆するばかりです。とはいえ、中島敦も似た状況にあったようです。というのも、この「ある時は……」が続いたあとにはこう書かれる。

遍歴(へめぐ)りていづくにか行くわが魂(たま)ぞはやも三十(みそぢ)に近しといふを

わかるなあ。当時とは平均寿命も異なるだろうから、「三十歳」が近づくことの重みというのもいまとは違うのでしょう。これだけのものをたどりながらも、自分がどこに行くのかわからない……(となれば、僕なんぞはいつになったらそれが見えてくるのか……。ときおり、本棚を見つめると、こんなに辿りながら、いまどこにいるのだろうかと思わずにはいられませんよね……)という悩みが中島敦にもあったようです。当然といえば当然の悩み。

小説が最強である

中島敦は横浜で女子校の教師をやりながら小説を書いたり、短歌を書いたりしていましたが、その仕事の部分と、自分が目指すものの間でどうも引き裂かれていたところがありそうです。(そこもわかるなあ。)そして、「小説」についてはこんなことも言っています。

「しかし、それでも尚、私は、小説が書物の中で最上(或ひは最強)のものであることを疑はない。読者にのりうつり、其の魂を奪ひ、其の血となり肉と化して完全に吸収され盡すのは、小説の他にない」(「光と風と夢」)

彼はスティヴンスンに共鳴して、スティヴンスンに憑依しながら「光と風と夢」という作品を書きました。そこでは、こんな狂暴なことを言っています。「小説」こそが「最強」である。なるほど、でもね、ごめん、敦くん、僕がきみ(いま同い年だから「きみ」と呼ぶね)に共鳴する部分はどちらかというと「小説」ではなくて「詩」なんだよなあ。と、いうことを発端にして、彼の「詩」について、これから少し考えていきたいと思うわけです。

「山月記」における「詩」

まず、みなさんご存知「山月記」を読めば、表面上は詩人のことが書かれているので、「詩」についてはなんとなくよくわかることだと思われます。

他でもない。自分は元来詩人として名を成す積りでいた。しかも、業未だ成らざるに、この運命に立至った。曾て作る所の詩数百篇、固より、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在も最早判らなくなっていよう。所で、その中、今も尚記誦せるものが数十ある。之を我が為に伝録して戴き度いのだ。何も、仍って一人前の詩人面をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせて迄自分が生涯それに執着した所のものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死にきれないのだ。(「山月記」)

まさに獣に身を変えるほどの自意識の高さ。その自意識を生み出しているものは他ならぬ「詩」ですよね。「死んでも死にきれない」(痺れる)。でも、そもそも原典の中国の「人虎伝」では詩作はほとんど問題にされていない。虎になるまえに未亡人と恋仲になり、その家族に関係が知られることになったので、未亡人とその家族ごと家に火を放って殺してしまったという、いわば李徴の「暴力性」が虎に変えてしまったという物語が「人虎伝」だったんですよね。

だから、「人虎伝」と「山月記」とのごくごくシンプルな物語の比較から浮き彫りになることは、《「詩」にとらわれることによって、「虎」のような獣になってしまう》ということに中島敦の思惑があったということになりそうなんです。

「山月記」は連作

もう一つ、「詩」に思惑があったのではと言うのは、実は「山月記」だけ読んでいても見えてこない。「山月記」だけから何かを得ようとすると、学校教育でおなじみの「臆病な自尊心、尊大な羞恥心」という自意識の問題に終始してしまいがちになるんだけど(本当にこれは問題だよ……)、「山月記」という部屋からちょっと出て、隣の部屋というか、この建物がどんな建物なのかを見ると、違った性格が見えてくるように思う。というのは、そもそもこの「山月記」という作品は、言ってみれば連作のうちの一つだからだ。

「山月記」は、「古譚」と題された四つの作品のうちの一つ。その他の作品は、「狐憑」「木乃伊」「文字禍」の三つであり、いずれの作品も「現代」ではなく、古代のどこか遠い地が舞台となっている。そして、一読してわかることは、いずれも「言葉」をめぐる話であることだ。さらに、結論を言ってしまえば、「言葉」に取り憑かれた人間が「不幸」になる話だ。もっと言えばそれは「詩」なのかもしれないのだ。

言葉の檻のなかで吼える獣

この「古譚」という作品群は彼が死ぬ一年前ほどに書かれました。療養と文学に専念することを目的に横浜の女学校の教師を辞し、南洋(パラオ)に「植民地用の国語教科書」編纂の仕事に出かける直前のこと。そしてこの原稿は深田久彌に託され、「山月記」と「文字禍」だけが「文學界」に発表されたようです。もともと身体も強くはないのにパラオまで出かけて、デング熱にかかったり、さらに苦労を積んだ彼の声はどんな声だったのか。喘息でゼエゼエ言いながら、その心のうちで何を語ったのか。これから、何を書こうとしていたのか。

僕はちくま文庫の中島敦全集で彼の作品をときおり読み返しています。あの硬質な文体と、そのガチガチに固めたスタイルの隙間に、なんというか生々しい人間性というのかな。それは李徴のなかにひそむ「虎」みたいなものかもしれない。そういう「言葉の檻」のなかで暴れている「獣」がいるなあと。そういう意味でも「虎」を使いたかった彼の思いもなんだかよくわかる(いま「わかる」と言ったが、この「わかる」は危険だ。「山月記」を読んで、「わかる」人間がこの物書きコミュニティには五万といるはずだ。そして、この「わかる」は敦が仕掛けた巧妙な罠かもしれない。「わかってはいけない」。ものなのかもしれないのだ……)。その「獣」の行く末を、遠吠えをたどりながら見届けてみよう。

というわけで、数回にわけて「古譚」という連作を読んでいきたいと思います。「言葉」に取り憑かれた詩人のたどる運命のことや、「詩」を書くということが本質的には、どんなことであるのか。そんなことについて、中島敦と一緒に歩いていきましょうか。ゆっくりと。

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