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何かを生み出すこと、変化すること。


今朝の、ささやかな楽しみ。
パンのためのバターを買った。

と言っても、高級品とかではなく、ふつうにどこのスーパーにも並んでいるもの。


ほぼ毎朝パンだったころは、すぐになくなるので、バター入りマーガリン、くらいを買っていたのだけれど。
たまに食べるパンなら、美味しいバターでもいいんじゃないか、と思って。

焼いたバゲットに、何度も冷たい薄いバターの塊をすくってのせて口に運び、至福のひとときを味わっていた。


すると長男が、バターを食べるためにパン食べてるよね、と言う。

そうだよ、よくわかったね。

あぁ、こう書いているあいだに、また食べたくなってきた。




今日は、4年ぶりに地区の子ども会の行事があるため、お神輿を飾る花を作る。
男子たち、すぐに飽きて離れてゆく。
私は色の組み合わせを考えながら、残りもくもくと作る。

はまったね、と長男。


ちがうよ、あなたたちが作らないから、と言いながら、あぁやっぱり、ただひたすら無心で手を動かすのって好きだなぁと思う。

向いていない接客業とかやめて、工場で働こうかと何度思ったことか。


やらなきゃいけないことは山積みなのに、やる気が出ない。
北側の日陰の庭で、新しい種類に交代した雑草たちを、またただひたすら抜く。手を動かす。

ただ手を動かすだけではだめなのかな、人は何か新しいものを生み出さないと評価されないのかな、でもそもそも誰かに、誰に評価されたいのかな、とか。
ぐるぐる考えながら。(基本、思考が暗い。)


隣の家の窓ごしに、白い柴犬のハルが、入ってきたトラックに吠えていた。
ハルのしっぽは、他の柴犬がそうであるように、くるんとしている。
でも、もっときゅっとくるんとまるまっていて、ホイップクリームみたいになっている。

見るたびに、しあわせな気持ちになるしっぽ。
私も欲しいなぁ、そういうの。
それこそ、自分で作り出さなきゃいけないのか。
それとも、もともと備わっているものなのか。
(思考がずれてゆく。)


8月は、なぜだかわからないけど、心がざわざわして、ちょっと苦手だ。

そのヒントとなるような言葉を、ずっと大切にしている。
ほぼ日刊イトイ新聞での、いつかの糸井さんのコラムの言葉。(もしかして、去年もどこかに引用したかも。)

大人になってからも、もちろん老人も、生や死や、光や影や、出会いや別れを感じる八月には、こころのなかに混沌に似たものを見つけることになる。年相応の落ち着きや知ったかぶりができなくて、夏の暑さにいったん溶けてみたほうがいいのだろうな。
……………
たくさんの変化が、準備されている。変わることを怖れないだけでなく、変わることのほうに飛び込んでいくような季節が、少しずつ動き出していくはずだ。

「今日のダーリン」より



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