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存在を問い続けて

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「岡山の部落史」をテーマに、「渋染一揆」や「明六一揆」(解放令反対一揆)を中心に、江戸時代から近代までの論考や史資料を紹介していきたい。
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#差別

部落改良の背景-明治40年代の現状-

『岡山県史』に次の史料が載っている。 この岡山県知事は寺田祐之(てらだすけゆき,1851年1…

藤田孝志
1年前
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伊勢大神楽差別事件

上道郡沖新田の村々では、毎年秋になると伊勢大神楽の一行が来て、五穀豊穣を祈って神楽を勤め…

藤田孝志
1年前
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岡山の部落関係史:岡山藩4

◯1713(正徳 3)  村と町の放し犬は穢多にとらせるよう命令(市政提要)  浅口郡船尾…

藤田孝志
1年前

「渋染一揆」再考(11):身分と身形

「渋染一揆」の最大の謎は,「別段御触書」の【穢多衣類,無紋渋染藍染に限り候…】である。な…

藤田孝志
2年前
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「渋染一揆」再考(10):差別からの解放

従来の「渋染一揆」の授業実践で強調されてきたことは,次のようにまとめることができるだろう…

藤田孝志
2年前

「解放令反対一揆」(1):解放令の布達

1871(明治四)年8月28日に太政官布告として出された「解放令」が津山県庁から管内に布…

藤田孝志
2年前

岡山藩の「穢多頭」役

岡山部落問題研究所機関誌『調査と研究』に連載された人見彰彦氏「部落史のひとこま」に紹介されている史料を引用(転載)させてもらいながら,岡山の「穢多頭」について考察してみたい。 その史料は「穢多頭前々動向書上帳」である。これは,穢多頭が命じられている「役務」と「仕置き」に関して述べたもので,仕置や磔弐関する絵図も描かれている。 穢多頭の動向について書上げるように仰渡されたので左のように書上げます。 一,当村が始まってより数代,穢多頭を仰付られ,臨時の御用も大切に勤めてきました

岡山藩の「目明し」役(1)

岡山藩で穢多身分の者に「目明し」役を命じるようになった経緯を,人見彰彦氏の「部落史のひと…

藤田孝志
2年前

「柿渋染め」覚書ノート

中国では,4~5世紀頃から存在したと推測されている。 韓国では,1382年『済州島略史』によれ…

藤田孝志
2年前
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「渋染一揆」関連史

●1702(元禄15)年「御役目拒否(返上)」「穢多頭」の多左衛門が「(処刑した罪人の)死骸を取り片…

藤田孝志
2年前

「渋染一揆」原典史料:解題

『岡山部落解放研究所紀要』(1988 第6号)「渋染一揆関係史料集」には,原史料(原文書)を…

藤田孝志
2年前
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「渋染一揆」再考(9):動機

『岡山地方史研究』(117号)に,ひろたまさき氏の『差別からみる日本の歴史』に関する井久…

藤田孝志
2年前
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「渋染一揆」再考(8):他藩の渋染強制

「渋染一揆」の77年前,1778年(安永7)に岡藩(大分県)で被差別民に対して出された触…

藤田孝志
2年前

「渋染一揆」再考(7):染色

「渋染一揆」に関して,従前の「渋染」の衣服が存在しない(庶民の通常の衣類ではなかった)という説や認識は訂正する必要があると考えている。昨年末より衣服について調べていて,柿渋の衣服は存在したし,安価な実用的な衣服であるとわかった。では,なぜ岡山藩の穢多身分の人々が一揆まで起こすほどに反発したのだろうか。 岡山部落解放研究所の好並隆司氏が「所報」に『渋染一揆再論』として,「渋衣は非人が用いたという歴史的経緯」をもとに,渋色(柿色)の衣服は非人系の着けるものという認識が穢多にあっ