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岡山藩の「目明し」役(1)

岡山藩で穢多身分の者に「目明し」役を命じるようになった経緯を,人見彰彦氏の「部落史のひとこま」の史料と記述を参考にまとめておきたい。

岡山藩で「目明し」が散見される最も古い史料は,1656(明暦2)年の「若州小浜へ御使者として垣見七郎左衛門つかわされる。これ似せ銀の目明シめしつれつかわされるなり」(『備陽国史類編』)である。

明暦2年,岡山藩では「偽銀貨鋳造事件」がおこり,それに関連して「目明し」が登場した。藩主池田光政は,犯人を逮捕し,拷問し,事件の全貌を解明して幕府に報告している。この史料は本事件の顛末を記した報告書である。

  似せ銀吹共惣目録
一 備前邑久郡虫明村九郎兵衛,こくい二本所持仕候 四度拷問,最前より有様ニ白状仕候,大形ハ此者之口ニ而知申候
一 備前岡山本願寺町五郎左衛門,こくい三本所持仕候 五度拷問
一 同 児島郡槌ヶ原村市郎兵衛,こくい壱本所持仕候 五度拷問
一 同 岡山又兵衛町三郎右衛門,古こくい壱本所持仕候得共役ニ立不申,五郎左衛門こくい借り候而吹申候 五度拷問
一 同 津高郡金川村甚三郎,こくい一郎兵衛手前より請取吹申候 六度拷問
一 同 岡山二日市町久大夫,こくい九郎兵衛ニ借り候而吹申候 五度拷問
一 同 児島郡北浦村七郎兵衛,こくい五郎左衛門ニ借り候而吹申候 九度拷問,此者有姿ニ相見へ不申候ニ付,度々拷問仕候
此七人之者共ハ,度々船ニ而似せ銀吹申候儀,紛無御座候
この史料に続き,「似せ銀ヲ遣荷持仕候者共」として10人の名前と罪状,「似せ銀吹候刻,船ヲ借り,水手ニ罷出者共」として8人の名前と罪状,「他国ニ罷有,似せ銀ヲ買取遣申者共」として3人の名前および「相果申由之者共」として9人の名前と罪状が列挙されているが,ここでは転載しない。

人見氏は,史料の紹介の後,次のように述べている。

このように事件が次々とおこされますと武士の手のみでは捜索しきれません。世間の事情に通じている人々が総動員され,それにともなって治安警察のしくみも整えられていったようです。「目明し」だけでなく「おんぼう次郎九郎,このたび似せ銀穿鑿ニつき,数日相詰骨折候ニつき,麦拾俵つかわさる旨,老中,町奉行大原孫左衛門ニ申し渡さる」(留帳)と「おんぼう次郎九郎」も活躍しており,彼はすぐ後に「町方盗賊見廻り役…つかまつり候様仰せつけなされ」(市政提要)と書いています。

人見彰彦氏の「部落史のひとこま」に,元禄時代に活躍した目明し「嵐山角(覚)右衛門」が書き残した文章が紹介されている。これらの史料も岡山部落問題研究所に所蔵されている。

 乍恐口上
私は貞享四年(1684)のくれにこの村にまいり,おかみの御用を勤めております。その時,手当として,私に一日に米一升,家内人数男女に御蔵麦を御定の通り下されることとなっております。つまり,御野郡・上道郡より米五石・麦五石ずつ下さるようになっていますが,毎年定められたほどは請取ってはいません。ここへ来た時は,少しも耕作はしないで手当のみで生活しているため,やりくりがつかず大部借銀もしました。どうにもならなくなり,元禄七年のくれ,実情を報告しますと,沖新田村の死牛馬掃除権をくださり,それを売って大部の借銀を支払うことができました。しかし,去年より地御用・旅御用がたび重なり出費が激増し,当年の暮れの諸払いは全くできなくなりました。そこで,やむなく女房を離別し里へ帰し,娘二人は備中の知人にあずけ,下人・下女三人は帰し,私一人となり出費を少しでも抑えようとしているありさまです。どうか定められた手当は,各郡ともきちんとくださるように,よろしくご指導のほど御願いいたします。
元禄十年十二月        御野郡 角右衛門

角右衛門が差配していた「御野郡・上道郡」にはどのくらいの村落があったのか。それを知る史料も紹介されている。それは,角右衛門が配下の「穢多判頭」に命じて「夜廻り」を請け負っている史料である。抜粋して転載する。

右拾七ヶ村□□より夜廻りつかまつる。
子ノ八月廿七日        穢多判頭  弥兵衛
                    同     庄兵衛
右弐拾八ヶ村□□より夜廻りつかまつる。
子ノ八月廿七日      穢多判頭  太左衛門
                 同      清左衛門
右三拾ヶ村□□より夜廻りつかまつる。
子ノ八月廿七日      穢多判頭  八郎兵衛
村数合七拾五ヶ村,其外枝村まで残らず吟味つかまつり,夜廻りつかまつらせ申すべく候。以上
元禄九年子ノ八月廿八日
             御野郡□□村  角右衛門

これを見ると,岡山城下周辺の村々(75ヶ村:この史料にはすべての村名が記されているが,その転載は割愛した)を三分割し,近隣に位置する穢多村3ヶ村にそれぞれ割り当てて夜廻りをさせ,それを采配しているのが角右衛門であることがわかる。
夜廻りの「手当」(費用)は,関係する御野郡・上道郡から郡割として徴収している。
『撮要録』によれば,元禄十一年に嵐山覚右衛門が岩田町に作られた「目明し屋敷」に入っている。以後,「穢多町廻り次郎兵衛下人一人召連,引越」「延享二年より町廻り徳右衛門住宅」「明和元年より穢多庄左衛門住宅」等々と「穢多」が「目明し屋敷」に入っている記述が史料に見られる。

人見氏は,子の池田綱政が父光政が強行した「キリシタン神道請」などの諸政策を改め,村落支配の機構を改編した藩政改革の一貫として,穢多身分の実力者を「目明し」に登用し,各郡より手当を出させる仕組みを整えたのではないかと考えている。




部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。