藤田孝志

イスラエルに【おなかがすいた子どもに、一匹の魚を与えれば、その日だけの食べ物にしかなら…

藤田孝志

イスラエルに【おなかがすいた子どもに、一匹の魚を与えれば、その日だけの食べ物にしかならない。魚のとり方を教えれば、一生の食べ物をあげたことになる】という口碑がある。私はそのような「記事」を書いていきたい。本来あるべきでないものをなくすために…何ができるかを問い続けていきたい。

マガジン

  • 心の壁を越えるために

    岡山県にある長島愛生園をフィールドに,ハンセン病問題について,その歴史的過程(排除・排斥・隔離の歴史)と実態(なぜ差別されたのか)の解明などを通して,我々が将来に向けて何を学ぶべきかを考えていきたい。

  • 時の流れの中で

    人権・教育・社会・文化など,折に触れて感じたことや思ったこと,考えたこと,伝えたいことなどを「断章と雑感」として書いてみたい。

  • 史実の深層を求めて

    さまざまな歴史事象の背景を多様な視点から考察することで,歴史観や歴史認識を再考してみたい。

  • 人と海に学ぶ

    岡山県東部に位置する日生をフィールドに、里海づくりを目指している中学校の海洋学習の実践を紹介する。「里海づくり」(海洋学習)を通して将来の地域再生を担う子どもたちを育てる「日生の応援団」プロジェクトです。

  • 存在を問い続けて

    「岡山の部落史」をテーマに、「渋染一揆」や「明六一揆」(解放令反対一揆)を中心に、江戸時代から近代までの論考や史資料を紹介していきたい。

最近の記事

  • 固定された記事

汝の道を行け

Segui il tuo corso、e lascia dir ie genti! 【 汝の道を行け、そして人々の語るにまかせよ 】 ダンテの『神曲』「煉獄篇」にある章句であり、マルクスが『資本論』(初版序文)に掲げたことでも有名な格言として多くの人びとに勇気を与えている言葉である。 ----------------------------------- 年頭、<Blog>から<note>に、記事(文章)を移行した。 作業しながら昔書いた文章を読み返していると、論旨が明確で

    • <特別病室事件>再考(9)

      8月15日午後7時から第一回患者大会が開催された。大和ら総和会常務委員会全員が出席し、患者数は約400名にのぼった。共産党からは伊藤憲一、真穂七、山本俊五のほか、金応七、田口賢造が臨んだ。常務委員会よりの経過報告と提言の後、討論に移り、患者は次々と起ち上がり被害の実例を語った。そして、次の事項を決定する。 これを読んで少しだが人間の良心を感じたのは「同情的ナ職員」という一文である。戦後間もない時期、楽生園でも職員組合が結成されていた。初代組合長に庶務の井上謙、副に医官の武田

      • <特別病室事件>再考(8)

        「特別病室」設置の要因となった1936年に起こった「長島事件」(長島愛生園)は、ハンセン病史およびハンセン病問題に関する著書や論文にはよく取り上げられるが、1947年に起こった「特別病室事件」は語られることが少ない。私は、「長島事件」と同等に重要な事件であり、患者が立ち上がり、要求を認めさせ、何より「特別病室」を廃止に追い込んだ「人権闘争」として後世に語り継ぐべきであると思っている。 今までも「人権闘争」に関しては書いてきたが、改めて『風雪の紋』や『とがなくてしす』(沢田五

        • <特別病室事件>再考(7)

          ここで、福岡安則が『裁判抜きの「重監房』によって明らかにした「訂正」を紹介しておきたい。過去のできごとなどについて論証する際、できるだけ一次資料によって検討するが、それでも誤記や誤認によるまちがいは起こりうる。そのため、可能な限り資料を集めて多角的に考察する必要がある。しかし、それでも新たな資料によって「訂正」は起こり得る。 福岡は宮坂道夫の『ハンセン病 重監房の記録』について、次のように書いている。 福岡は、『風雪の紋』に収録されている資料「栗生楽泉園特別病室真相報告―

        • 固定された記事

        汝の道を行け

        マガジン

        • 心の壁を越えるために
          113本
        • 時の流れの中で
          98本
        • 史実の深層を求めて
          28本
        • 人と海に学ぶ
          5本
        • 存在を問い続けて
          56本
        • 我が心は石にあらず
          82本

        記事

          <特別病室事件>再考(6)

          なぜ、栗生楽泉園に「特別病室」が造られたのか。私は、どうしても光田健輔の影を見てしまう。沢田さんや高田さん、谺さん、そして「特別病室」で極限状況の日々を過ごさなければならなかった人たちの無念と執念を思うとき、深く解明せずにはいられない。 沢田さんが何を根拠にこのように思ったのかはわからない。ただ、1931年の大島青松園で起こった「ラジオ事件」(所内患者の慰安にと篤志家が寄付したラジオを施設側が集会所に設置はしたものの、患者に自由に使わせなかったため、大勢の患者がこれを持ち出

          <特別病室事件>再考(6)

          <特別病室事件>再考(5)

          「重監房」に収容された鈴村秀夫は,どうなったか。 「特別病室」の最長在監記録は「満八十山」であって533日間である。鈴木より90日長い。それにしても、冬は零下20度にもなるという極寒を、梅雨の時期の湿気によるカビ、真夏の猛暑をわずかな水分で、よく耐え忍んだと思えば、逆に哀れさがつのる。 あらためて「特別病室」の構造について、『とながくてしす』より引用する。 「特別病室」の構造を文章からイメージするのはむずかしい。『日本のアウシュヴィッツ』(高田孝)に「特別病室平面図」が

          <特別病室事件>再考(5)

          <特別病室事件>再考(4)

          私が大事にしている『栗生楽泉園入所者証言集』は、谺雄二さんにいただいたものだ。 「特別病室」(重監房)について調べていたとき、沢田五郎さんの『とがなくてしす』、高田孝さんの『日本のアウシュヴィッツ』を手に入れて読み込み、どうしても谺さんと話がしたくて、栗生楽泉園に電話をかけた。谺さんの体調を気遣いもせず長話をしてしまった。その折りに『栗生楽泉園入所者証言集』の話が出て、活用してくれるならと送っていただいた。「会いに行きます」と約束しながら年月だけが流れ、ついには谺さんの訃報を

          <特別病室事件>再考(4)

          <特別病室事件>再考(3)

          以前、キリスト教の牧師(現在は隠退牧師)が自身のブログに、かつて長島愛生園を他の牧師達とともに慰問したことを自慢気に書いていた。ハンセン病という名称が一般化して久しいにもかかわらず「癩」「ハンセン氏病」と繰り返し書き、読みながら彼の厚顔無恥に呆れ果てた。そんなことが自慢になるのかと思いながら、信仰の欺瞞を痛感した。偏見や差別の解消を提言する牧師が、結局は口先だけの慰めしかできず、自らは動かず、同情と憐れみの言葉を伝えることで自己満足する。それを回想してブログに書く。なんと愚か

          <特別病室事件>再考(3)

          ヘーゲルが読んだ本

          『新潟日報 デジタルプラス』に、次の記事が掲載されていた。 ふと思ったことがある。学者が集め、読んだ書籍は一体どうなったのか。例えば、ヘーゲルやカント、ハイデガーなどの哲学者、マックス・ウェーバーやマルクスなどの経済学者、彼らが蒐集した膨大な書籍はどこにいったのだろうか。藤野氏のように図書館や資料館に寄贈されたのか、あるいは子孫が保管しているのか(記念館のように)。将又、散逸してしまったのか。 私が興味があるのは、例えばヘーゲルが実際に読んだカントの著書である。手に取って

          ヘーゲルが読んだ本

          <特別病室事件>再考(2)

          なぜ草津の栗生楽泉園に「特別病室」が設置されたのか。 各療養所には監禁所(監房)が完備されていた。それにもかかわらず、なぜアウシュビッツ収容所のガス室のような重監房がつくられたのか。やはり光田の意向が強く働いていた。 例年は1月に開催される全国所長会議が、1936(昭和11)年は急遽繰り上げて10月1日に内務省で「癩療養所長会議」(全官公立療養所長が出席)が開かれた。なぜ繰り上げたのか、それはこの年、「長島事件」が起こったからである。(「長島事件」については、別項にて論じて

          <特別病室事件>再考(2)

          <特別病室事件>再考(1)

          ハンセン氏病患者協議会編『全患協運動史』には、患者たちの「事実」と「誇り」が書き綴られている。日本患者同盟会長長宏は「序文」に次のように書いている。 『全患協運動史』を私に手渡したのは、長島愛生園の金泰九さんだ。ある日、彼の居宅を訪れた私に本場韓国のインスタントラーメンとこの本を渡して、「この本を読めば、ハンセン病の歴史がわかるよ」と言った。自宅に帰り、早速読み始めてすぐに、目の前にまるでその場にいるような映像が流れてきた。あまりの残酷さと理不尽さのなかで、立ち上がっていく

          <特別病室事件>再考(1)

          光田健輔論(64) 「らい予防法」の背景(1)

          「らい予防法」成立の背景は、成田稔『日本の癩対策から何を学ぶか』に詳しいので、これを元にしながら関連書を参考に時系列的にまとめておきたい。 藤野の一文は「らい予防法」の国会での成立過程を簡単に述べている。こうして、患者の要求は受け入れられず、「癩予防法」よりも隔離政策が強化された「らい予防法」は成立した。 戦後、新憲法の制定など民主化の波は療養所入所者に大きな影響を与えた。それは各療養所における自治会運動の活発化、そして全国組織の結成へと拡大していった。 両要求書の内容

          光田健輔論(64) 「らい予防法」の背景(1)

          光田健輔論(63) 「三園長証言」の考察(12)

          光田健輔を、ミッシェル・フーコーの<牧人権力>の図式をもとに考察したのが武田徹である。武田の考察を『「隔離」という病』より抜粋して引用する。 この「個別化を行うものとしての権力」をフーコーは「牧人権力」と呼ぶ。 光田の言動は、確かに<牧人>である。光田の患者に対する<両義的な対応>も説明がつく。意に従う患者には限りなく優しくもあり、意に沿わぬ患者には限りなく冷酷である。愛生園という牧場で患者という羊を支配しようとした。光田に羊を慈しむ牧人の姿を見た後継者や患者は<慈父>と

          光田健輔論(63) 「三園長証言」の考察(12)

          差別と多様性

          差別はいけない。誹謗中傷・罵詈雑言はいけない。誰もがそう思っている。しかしそれでも、わかっていながらしてしまう。「知行不一致」がなぜ繰り返されるのだろうか。 私は、そこに「目的のための手段の正当化」が行われるからだと思う。自分勝手な「正義」を「目的」に置き換えて、その実現のためには、いかなる「手段」さえも「正当化(許容)」できると思い込む。そこに「他者」は存在せず、自己完結してしまう。たとえば、ネット世界につながったパソコンと向き合う自分の世界だけで完結する。自らの主張は誰か

          差別と多様性

          光田健輔論(62) 「三園長証言」の考察(11)

          「三園長証言」以後、厚生省は「癩予防法」の改正を進めていくが、その背景について考察してみたい。なぜ光田健輔、そして林芳信、宮崎松記など光田の考え(光田イズム)に同調する「絶対隔離論者」ばかりを参考人として招集したのか、このことだけでも厚生省が「絶対隔離政策」を維持しようとする意図が明らかである。 国会議員に対して、ハンセン病の専門医であり療養所所長(園長)である三人の肩書き(権威)に裏付けられた「証言」によって「絶対隔離政策」の正当性と必要性をアピールすることが厚生省の目的で

          光田健輔論(62) 「三園長証言」の考察(11)

          秋を感じながら

          私は、秋という季節が一番好きだ。心地よい秋風を感じながら朝夕に愛犬と散歩する。今からの季節が、さまざまな思考を巡らせるに最適である。 昨年からハンセン病問題、光田健輔の言動を通して考察している。その一端は「光田健輔論」としてメモ書きではあるが、ブログとnoteに発信している。あくまで関連書籍や資料を読み込んで分析・考察したあれこれを時系列的に書いているだけで、思考を整理している段階である。 光田健輔を追求していくなかで、彼の人格か人間性か、あるいは時代や社会の影響なのか判

          秋を感じながら