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存在を問い続けて

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「岡山の部落史」をテーマに、「渋染一揆」や「明六一揆」(解放令反対一揆)を中心に、江戸時代から近代までの論考や史資料を紹介していきたい。
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記事一覧

「渋染一揆」再考(19):倹約令(7)

極論になるかもしれないが、江戸時代の百姓は日本人本来の「農を生きる」典型であり、自然と共…

藤田孝志
1年前
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「渋染一揆」再考(18):倹約令(6)

『備前藩 百姓の生活』(荒木祐臣)に、『法例集』よりの引用文とその解釈の記述がある。 こ…

藤田孝志
1年前
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「渋染一揆」再考(17):倹約令(5)

広島城の広報誌『しろうや!広島城 30号』<広島のおしゃれ事情~企画展「江戸のおしゃれ」こ…

藤田孝志
1年前
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「渋染一揆」再考(16):倹約令(4)

岡山の郷土料理に「祭り寿司」があり、「岡山ばらずし」「備前ばら寿司」とも呼ばれている。お…

藤田孝志
1年前

「渋染一揆」再考(15):倹約令(3)

「渋染一揆」に関する単書としては『渋染一揆論』(柴田一)、『概説・渋染一揆』(大森久雄)…

藤田孝志
1年前

「渋染一揆」再考(14):倹約令(2)

『岡山部落解放研究所紀要 第6号』所収の『御倹約御触書写』(味野村控)をそのまま転載する…

藤田孝志
1年前

「渋染一揆」再考(13):倹約令(1)

「渋染一揆」は、安政2(1842)年12月に出された「倹約令」(倹約御触書)に端を発する。この触書は全文29か条からなり、そのうち前24か条は、郡中すべての領民を対象としており、残りの5か条が穢多など被差別身分にのみを対象に追加(付加)された。 「倹約令」とは、幕府や藩が財政危機に際して頻繁に命じたものであり。その目的は財政支出を抑制するためのものと,庶民の奢侈禁止・節約など消費の抑制を規定したものとがある。 庶民(百姓や町人)に贅沢を禁止し節約を命じて支出を抑えさせ、年貢

「渋染一揆」再考(12):身分呼称

「渋染一揆」は部落史だけでなく日本史においても重要な<できごと>である。 小学校から高等…

藤田孝志
1年前
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部落改良の背景-明治40年代の現状-

『岡山県史』に次の史料が載っている。 この岡山県知事は寺田祐之(てらだすけゆき,1851年1…

藤田孝志
1年前
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津山の「解放令」

机上に、『津山市史』の第五巻 近世Ⅲがある。先日、偶然入った古書店で、第3巻と合わせて手…

藤田孝志
1年前

岡山の部落関係史:津山藩

津山藩の部落関係史料については『岡山部落解放研究所紀要』に「美作津山藩被差別部落関係資料…

藤田孝志
1年前
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岡山の部落関係史:岡山藩7

江戸時代の史料を元に、先達の研究成果を借用しながら年代別にまとめている。 幕末に起こった…

藤田孝志
1年前
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岡山の部落関係史:岡山藩6

江戸時代の中期から後期にかけて幕府や各藩から「えた」・「ひにん」身分を対象とした差別法令…

藤田孝志
1年前
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岡山の部落関係史:岡山藩5

ここでは、岡山の近世における重要な事件、被差別部落民(「穢多」身分の人々)にとっての解放闘争前史ともいえる「改宗反対闘争」についてまとめておく。 <常福寺の歴史> 国守の常福寺は元は長福寺として718(養老2)年に創建され、はじめは大覚院と称していたと伝えられている。16世紀末、祥覚が宇喜多(浮田)氏に願い出て堂塔を建立し、宇喜多氏の祈祷所となった。やがて、豊臣秀吉の妾腹に長福丸が出生したが夭逝した。このとき、祥覚が冥福を祈った。秀吉は直黒印寺領を与え、長福丸の追福菩提の祈