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「渋染一揆」再考(7):染色

「渋染一揆」に関して,従前の「渋染」の衣服が存在しない(庶民の通常の衣類ではなかった)という説や認識は訂正する必要があると考えている。昨年末より衣服について調べていて,柿渋の衣服は存在したし,安価な実用的な衣服であるとわかった。では,なぜ岡山藩の穢多身分の人々が一揆まで起こすほどに反発したのだろうか。

岡山部落解放研究所の好並隆司氏が「所報」に『渋染一揆再論』として,「渋衣は非人が用いたという歴史的経緯」をもとに,渋色(柿色)の衣服は非人系の着けるものという認識が穢多にあったから反発したとの論を展開されている。

この渋着物については,“迷惑至極”“一同共……気落ち……生甲斐なく”とある。百姓と全く同じだとは思っていないのだから,その落胆というのは何に基づくのだろうか。嫁や婿もこないということも挙げている。他国の「穢多」が結婚相手だから,この渋着物が障害になるということは「穢多」以下の扱いというしかないだろう。先述の「非人」系衣類が渋色であるというのがここで思い出せるのである。備前の「穢多」は他領のそれよりも一層低い(年貢納付)のに他領の「穢多」よりも一層低い地位に下げられることが憤懣の理由であったろう。
……ただそのことは反面,「非人」と同視されることに対する,“迷惑至極”という意識も同時に胚胎しているのを認めないわけにはいかない。
(好並隆司 「岡山部落解放研究所所報」第193号『渋染一揆再論』)

確かに岡山藩においては,それ以前にも非人と穢多の対立は幾度かあり,訴訟・裁判にまで至っている。また,非人系の村も幾ヶ所か散在していましたが,渋染一揆には参加していない。

「非人の衣服であるという認識」が前提として彼らにあったかどうかがポイントである。私は「渋染一揆」の原因は「色」ではないと思っている。「非人の着衣の色」ではないと考えている。「色」に差別生があるのであれば,住本氏が言うように,一般民衆は「柿色(赤褐色)」や「灰色」を避けるはずだ。しかし,尚も疑問は残る。それは「藍染」である。最も一般的な木綿の衣服であり,染めであった「藍染」をなぜ拒否したのか。また,なぜ「渋染」だけでなく「藍染」も命じたのか。

久保井規夫氏は『江戸時代の被差別民衆』において,次のように述べている。

なぜ,渋染(柿色・赤茶色・赤錆色)や藍染(青色),浅葱色(うすい藍色)や白色などが,部落の人々に強要されたのでしょうか。
…(中略)…
渋染(柿色)は,中世からの偏見で血の色を表しているとして恐れられ,平人とは違った修験者(山伏)・悪党(無法者),検非違使(警察)たちが着たり,また犬神人のような下級神人や従者とか,あるいは乞食・「癩者」(ハンセン病)の着衣の色でした。
また,藍染・浅葱色・薄灰色などは青衣とよばれ,あの世の亡者・死人とか,乞食・「癩者」とか,従者・召使などの色とされてきました。そして,渋染(柿色)・藍染は「ひ人」の着衣や芝居小屋の幕,遊女屋の暖簾,あるいは牢獄に入れられたときの罪人の獄衣の色とされました。
だから,幕府や藩は目立つということだけでなく,偏見で差別されてきた色の着衣を部落の人々に強要してきたのです。

これに対して,住本健次氏は「渋染・藍染の色は人をはずかしめる色か」(『脱常識の部落問題』)で,次のように批判している。

藍で染めると,布が堅牢になるばかりでなく,洗えば洗うほど色がさえてくるので,浴衣や職人の作業着に使われた。商店の暖簾もたいてい藍染の紺色であった。また,藍染は特有の匂いのために,マムシや毒虫避けの効果があった。そのため,野外で働く人や旅の人は,たっぷり藍にひたした紺色の野良着や足袋や脚絆などが必需品であった。つまり,江戸時代の農民はたいてい藍染を着ていたのである。
藍染は何回も染めて色を濃くしていくが,色名も薄い順に「甕覗き」「水浅黄」「浅黄(浅黄)」「縹」「藍」「納戸」「紺」「紫紺」などと呼ばれた。その中に「褐色」(かち色)とか,「勝色」と呼ばれる色名があった。これは濃い藍色であるが,褐色は「勝つにつながり,縁起がよい」ということから,武士がもっとも愛好した色であった。…(略)…
藍染業者は「紺屋」とよばれたが,紺屋町という地名がほとんどの城下町に残っている。紺屋町は藍染業者が集住した町であるが,藍染に対する需要がなければ,こんなに全国各地に紺屋町が成立するはずがない。…(略)…
このように,藍染の藍色・紺色は「人が嫌がる色」であるどころか「武士から庶民まで,多くの人々が愛好した色」であったのである。
        …(中略)…
柿渋には防水効果があるので,傘や団扇,漁網や釣り糸の染に使われたりしたが,備後,つまり「渋染一揆」の舞台となった付近では,木綿の渋染が行われていたことがわかる。…「渋染の前垂れ」といえば,造り酒屋や醤油屋の職人を意味することばであった。つまり,渋染はひとの嫌がる特別の染ではなかったことがわかる。
        …(中略)…
網野善彦さんは「蓑笠と柿帷」で,「中世では,山伏や非人・乞食は柿色の衣服を着ていた」ということを明らかにしている。山伏や非人が着ていたという柿色の衣服は柿渋を塗った渋衣であり,それはまた,防水の必要のためであったと考えられる。そのため,中世では柿色は差別のシンボル色とみなされたのであるが,しかし江戸時代もそうであったとは限らない。
じつは江戸時代には,「四十八茶,百鼠」という表現があった。これは「微妙に色合いの違う多くの茶色やねずみ色が流行した」という意味のことばである。
        …(中略)…
「茶の色は江戸時代の代表色であり,しかもこの系統の色はわが国ではどの時代でも愛用されて,日本伝統の基調色となっている」と述べている。そのなかには,「団十郎茶」「路考茶」「利休茶」「憲法茶」など,人名に由来する色名も少なくないし,「唐茶」「江戸茶」「遠州茶」など,現在では,どんな色か想像もできない色名もある。こうしたことは江戸時代の人々の茶色に対する関心の高さを示している。
つまり,江戸時代の人々にとって,茶色系統の色は「人をはずかしめる色」でも,「人々が嫌った色」でもなく,むしろもっとも好んだ色であったのである。

久保井氏と住本氏の論点は,「特定の色」を「差別の対象」「差別の根拠」としたかどうか,また「特定の色」を避けたかどうかである。つまり,「色による差別」があったかどうかである。換言すれば,「差別・賤視の対象」を「色」によって選別したかどうかである。久保井氏は中世における賤民の着衣の「色」(特定の色の衣服を身につけていた)を前提に論を展開している。
(ここで,住本氏の間違いを指摘しておきたい。「備後」は岡山県西部から広島県東部であって,渋染一揆の舞台は「備前」である。)

同様に,上杉氏も次のように述べている。

江戸時代の各藩の賤民の服装規則に,穢多は藍染めの場合が多い。これを「浅黄」色とすることもある。正式には「浅葱」色と書き,いずれも「あさぎ」と読み,青(空)色のこと。
一方,非人は柿色ないし渋色とされることが多い。どちらも赤茶色のこと。とはいえ,穢多が青色,非人が赤茶色と完全に決まってばかりはいない。入れ替わって逆に穢多が赤茶色,非人が青色の場合もあった。いずれにせよ,これらは賤民の色だったのだ。
ただ,この二つの色が賤民の色だということは,ごく一部の藩を除けば,ほとんど忘れられ始めており,その点では,これらの色が囚人の衣服に使われていたことの方がよく知られていた。江戸時代の囚人たちは,赤茶か青色の服を着せられていたのだ。
…(中略)…
非人が渋(赤茶)色の衣装を着る風習は,中世にさかのぼる。当時ひろく非人とよばれていた宿非人(犬神人),ハンセン病者などが赤茶色の服を着ていた…
そのような目で見ると,江戸時代に入っても歌舞伎の市川団十郎が,柿(渋)色を代々の家の色と定めていたこともうなずける。役者には,「河原者」とさげすまれた歴史があったからだ。
…(中略)…
明治の初めまで囚人にこの色の服が着せられたのも,罪人は非人と同一視される傾向が,中世以来あったことを考えれば納得できる。
(上杉聰「部落史こぼれ話」『部落史がかわる』所収)

これに対して,住本氏は「色」による賤視・差別はなかったと主張し,その根拠として江戸時代の着衣に用いられた「染色」を例示して,庶民がそれらの「色」を好んだと論じている。

ここで両者の根拠に対する疑問を述べてみたい。
まず,中世における「色による差別」があったのかどうか,あるいは「特定の色」が「偏見で差別されてきた色」であったのかどうか。また,中世における「偏見で差別されてきた色」が近世においても人々の認識は変わらず同じであったのかどうか,である。
では,その「特定の色」を人々は避けたのかどうか,つまり着衣の色に用いなかったのかどうか。これについては,住本氏が述べているように必ずしもそうではなかった。

『江戸の庶民の朝から晩まで』に次の一文がある。

ファッションリーダーとなったのは,歌舞伎役者たち。男はひいきの役者が身に着けた衣装の模様や配色を真似た。
たとえば,「團十郎茶」と呼ばれる色は,歌舞伎界のスーパースター市川團十郎が,歌舞伎十八番のひとつ「暫」のなかで身に着けた巨大な大紋の地色のこと。ベンガラと茶渋で染めたやや黄みがかった茶色で,舞台の引き幕にも使われるなど大流行した色だ。
もともと,茶色は江戸時代の流行色だったが,茶系とひと口にいっても,俗に「四十八茶」と呼ばれたほど,さまざまな色合いがあった。
さらに,茶色よりも多数の色があったのは,「百鼠」と呼ばれる鼠色。灰色やグレーといった色だけでなく,彩度が鈍く感じられる色全般をさした。ひと言に鼠色といっても,緑がかったグレーをさす「利休鼠」から,赤みがかったグレーをさす「梅鼠」まで,じつに多様な色があったのだ。江戸っ子の色彩感覚は,敏感で繊細だったのである。

岡山県史 民俗1』の第5章「衣食住」にも「藍染」「草木染」に関する記述がある。これによれば,「着物や布団など衣料の地糸はすべて紺で藍染にした」とあり,その理由は「藍に染めれば,堅牢で,虫がつかず,糸も強くなった」からである。ただし,「藍は発酵が難しく染めるのに時間と技術がいったから,紺屋に頼んで染めて」もらったそうである。当時は「綿を植え,糸にひき,機で織りあげるまで,ほとんど自家の作業であったが,綿打ちと藍染だけは職人に頼んだ」ことから,「各地に紺屋があり,自分の近所になくても隣村にあるというふうであった。」と書かれている。

藍染の色合いは,漬け加減と中干しの回数により,染め賃の高い方から,上紺・中紺・下紺・オリイロ・浅黄・カメノゾキであった。仕事着は浅黄やカメノゾキであった。古着や色が褪せれば再び染め直した。

草木染で,茶系統の色合いを出す場合に「柿渋」を利用したとあるが,同じ茶系統でも媒染剤によって「渋茶・うぐいす茶・黄茶・赤茶」などに染まり,灰色や鼠色には「桐の木・灰・ドングリの渋」が利用されたとある。

これらのことからも,藍染・渋染は百姓・町人の日常の衣類・衣服であり,「染色」も様々な色があったことが推測できる。また,繰り返し出される「倹約御触書」では,他藩においてもだが,必ず「絹類」を贅沢として禁止している。度々触れ出すことは,実態としては守られていないと考えていいだろう。

住本氏は「藍色」「茶色」と一括りにして論じているが,藍染も渋染も多様な種類の「色」があるということは,藍色・茶色の中で特定の色,たとえば好並氏や久保井氏の言う「浅黄色」「赤茶色」のみが「賤民の色」だったとも考えられる。

住本氏の批判に答えて,久保井氏が「渋染一揆,被差別民衆が柿渋染を拒絶した思いを正しく認識するために……渋染一揆再考への反論」を展開している。

住本健次氏は『脱常識の部落問題』(かもがわ出版,1998年)所収の「渋染一揆再考:渋染・藍染の色は人をはずかしめる色か」で,報告者を批判し,渋染も藍染もひとの嫌がる特別の染ではなかったと主張している。ここには重大な誤解があるので,反批判をおこなう。
住本氏は岡山藩の布令でなぜ別段倹約令として「無紋,渋染・藍染に限る」とされたのかに,きちんと答えていない。無紋とは,家紋のあるいわゆる紋付だけでなく,ひろく紋様やがらのない無地単色を指す。当時すでに紋様の染め織りが一般化しており,貧困層は古着を買いもとめて着ていた。ところが無紋となれば新調するしかなく,倹約どころか,かえって出費がかさむと,一揆側が反論している。
住本氏が渋染を茶色一般にすりかえたうえで,江戸期にもっとも庶民から好まれたと記しているのは,誤りである。渋染は赤系統の色として受けとられていた。中世では渋染が布の強化や防水や防腐のため麻布に用いられたが,これは被差別民の装いであった。近世には木綿の染め織りが爆発的に普及したが,渋染は木綿に適さず,染めると固くなるので染糸もできないため,当時すでにすたれていた。なお,茶系色の流行は,幕府の奢侈禁令による色の制限との関連が深い。
ここでいわれる藍染とは,浅葱(浅黄・浅藍)と呼ばれる,染めの一番浅い,安物の青灰色のことである。他藩での衣服統制令では「浅葱」と明記される例が確認できるうえ,渋染一揆以前の岡山藩の御触書でも「浅葱空色無地無紋」との文言が見られる。この浅葱色とは,じつは獄衣,つまり囚人服の色なのである。なお,明治政府の獄衣も,柿渋色と浅葱色を伝統的に踏襲していた。
住本氏はまた,問題を倹約令一般と取りちがえているため,断罪を覚悟で一揆にたちあがった民衆の思いを説明できていない。一揆参加者の著作であると考えられる『禁服訟嘆難訴記』は原題が『穢多渋着物一件』であり,ここからも彼らが渋染を強く拒絶したことがうかがわれるが,同史料所収の嘆願書には「倹約令が百姓同様なら承諾もするが,衣類を別段にされることはお断り申し上げる」「無地の渋染のところを免じて,百姓同様にしてください」という旨の記述がある。一揆の論理はさらに,役人としての実務の観点から,識別されやすい衣服では,盗賊や不審者に気づかれてしまって不合理だとの批判も展開している。領主にたいしての務めを果たしていることに百姓と「何の違いぞあるや」とする強い自負心が,その抵抗の源泉にあったことを感じ取られる。これは一般の百姓との差別分断政策であり,差別が子孫にまでおよぶことを阻止した彼らの思いに心を重ねたい。

私も住本氏が結論としている「それでは,渋染や藍染の強制が倹約令として意味を持つのはどういう状況であろうか。たとえば,当時の被差別部落の人々のなかに,渋染・藍染以上の高価な染物を着ている者がいたならば,藍染の強要は『倹約令』としての意味を持つ。」には賛成しかねる。確かに,「別段御触書」といわれるが,まったく別の法令として出されてはおらず「御倹約御触書」として29か条が出されている。だからといって「倹約令」としての目的と意味で出されたとはいえないだろう。
岡山藩の「御倹約御触書」の24か条はすべての領民(穢多・非人・隠亡も含む)に出されているから,穢多・非人もまた経済的に百姓や町人と大差のない暮らしをしていた以上,絹類の衣服も所持していたと考えてもいいだろう。それがたとえ「古着」であっても「絹類」であったことは想像に難しくない。「別段御触書」は,穢多身分に対してのみ出されている。つまり,穢多身分は24か条+5か条を命じられたと考えるべきで,そのうえで「別段御触書」5か条の目的と意味を考えなければならない。

穢多身分を対象とした「別段御触書」の5か条には次のように書かれている。これは明らかに百姓との差異を明確にすること,身分差別を目的にしている。「倹約令」ということで「はだし」「くり下駄」を強要する意味がそれほどにあるだろうか。私は,「倹約令」の目的に,つまり「別段御触書」として穢多身分のみに強要した5か条には,身分の差異を明確にすること,すなわち身分差別の徹底があったと考える。

27条(別段3条)
雨天之節隣家或ハ村内同輩等へ参候節も土足ニ相成候てハ迷惑可致哉ニ付左様之節ハくり下駄相用候義先見免シ可申,尤見知候御百姓ニ行逢候ハ,下駄ぬき時宜いたし可申,他村程隔候所へ参候ニ下駄用候義ハ無用之事
もっとも雨天のとき,隣家や村内のなかま等の家へ行くとき,はだしであっては迷惑するであろうから,そのようなときは,くり下駄を履くことは,先ず認める。もっとも,顔見知りの百姓に行き会ったならば,下駄をぬいで,お辞儀をせよ。他村などの遠くへ行くときは,下駄を用いることは無用である。

『禁服訟歎難訟記』にある「嘆願書」では「藍染渋染」を<別段衣類>と書いている。何が「別段」なのだろうか。百姓とは異なるという意味か,あるいは「藍染・渋染」が「特別」なのか。先に見たように,「藍染・渋染」は「特別な」衣類ではない。普通の日常着である。つまり,「藍染・渋染」自体は,差別を強要するものではない。では,あらためて「色」が関係するのであろうか。先に述べたように,「藍染・渋染」のうちで,特定の「色」(浅黄色・赤茶色)が「賤民の色」であるならば,差別の強要という目的・意味も考えられる。だが,中世の社会通念が,たとえば延喜式におけるケガレ観が近世の服忌令に反映されているように,近世においても人々の認識にもあったのかどうか。
現時点での私の結論は,「特定の色」が「差別・賤視の色」であったかどうかは別にしても,その強要が「身分の差異の明確化」であったと考えている。
偏見や独断,先入観を排して史実を客観的事象として考察することが重要である。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。