岡山の部落関係史:岡山藩4
◯1713(正徳 3)
村と町の放し犬は穢多にとらせるよう命令(市政提要)
浅口郡船尾村の野皮場をめぐり酒津村穢多頭新八が「穢多法式」を主張
綱吉の発した「生類憐みの令」(1685~1709)が、綱吉の死去後、家宣の代となって廃止され、幕府や各藩において増えすぎた野犬を処分するために「野犬狩」が行われるようになった。
岡山藩においても頻繁に「野犬狩」が行われ1711(正徳1)年以降より1845(弘化2)年に至るまで約134年間に計25回の野犬狩の布告が町奉行より出されている。
捕まえた犬は、日を定めて旭川河岸の花畠の船積み場に集められ、鹿久居島に送り込まれることになっていた。この史料でわかることは、野犬狩は穢多の役目であり、治安維持のためであった。
◯1718(享保 3)
新本義民騒動につき、岡田藩が穢多を牢番・処刑役に使う。処刑した百姓の跡家を穢多にやる(新本一件覚)
◯1721(享保 6)
『備陽記』に「枝穢多」として11村が記されている
◯1722(享保 7)
窪屋郡真壁村中原の穢多与三郎が四国・西国廻国願を出すが、穢多なのでよそで平人に紛らわしいとの理由で不許可(法例集拾遺)
「平人に紛らわしい」ために(理由で)他国に行くことを「不許可」しているとはどういう意味だろうか。領国内では顔見知りが多いから「穢多」であることがわかるが、他国では顔見知りがいないため「穢多」であることがわからず、「平人に紛」れてしまうから許可をできないという意味であろう。つまり、容姿や服装では穢多かどうかが判別できないという意味と考えられる。
このことから、この頃はまだ容姿(髪型など)や衣服など「見た目」に対する身分統制(分け隔て:差別)はそれほどに厳しく行われていなかったと思われる。
◯1731(享保16)
御野郡下伊福村枝国守穢多清五郎が荒皮蠟の類を売買、大坂との取り引きで為替を要求し許可される(法例集拾遺)
穢多が皮売買を行い、藩に対して銀札五貫目拝借を願った。銀1貫目は約100~125万円くらいと考えられるので、銀札5貫目は約5~600万円であろう。これだけの銀札を藩に拝借できたこと、町人の「岡山皮問屋五両屋」と同様に為替を許可されていることから、藩にとっても皮革業および皮の売買が重要な商業であったことがわかる。また、岡山の荒皮が大阪に出荷されていたことから、大阪の皮革業者(皮商人)に全国から集荷されていたことがわかる。
◯1734(享保19)
犬を捕え鹿久島へやる。穢多の捕えた犬は郡方、町方の捕えた犬は町方より舟を出す(市政提要)
この史料は、管轄の違いからか、船代(費用)の負担からか、明らかではない。ただ、穢多と町方(町人)の分け隔て(差別)があったとも考えられる。
◯1740(元文 5)
肥し取りの穢多が肥しを取ってしまい外へ出るまで入念に見届けるよう牢内規則(法例集)
◯1742(寛保 2)
野乞食(野非人)を町内へおかぬよう命令(市政提要)
◯1750(寛延 3)
備中倉敷代官は、窪屋郡酒津村穢多新八を「郡中締方備中国穢多惣領頭」とし帯刀を許可する
穢多を統括する目的で「穢多頭」を置いた。倉敷は天領(幕府領)であることから、備中郡内の穢多を把握し、治安維持(町回り、捕亡など)や処刑などの役目を命じるための「頭支配」を定めたと考えられる。
ただし、「帯刀」を許されたから身分が下級武士(支配層)になったわけではない。あくまで罪人を捕亡したり、野非人や他国よりの不審者を追い払ったりするためであり、あるいはそのような役目を命じられていることの証明としての「帯刀」であると考える。
◯1756(宝暦 6)
穢多非人などに「平人」より身分高ぶる者がある、以後相慎み礼儀正しくせよと命令(市政提要)
18世紀半ばより、幕府や各藩はこのような身分に関わる日常生活の規制(統制)を繰り返し命じるようになる。身分統制を厳しくする理由は、身分間のちがい(差)に基づく体制(身分制度)が崩れてきたからである。身分の違いに応じて各身分が負担する「役」を果たすことで成立している身分制社会が江戸時代の支配体制であり、その乱れは封建制社会の維持に関わるからである。
上記の史料をどのように解釈するか。
「平人」(身分)とは武士に対して、「御帳付」(人別帳に記載された)の町人・百姓を意味する。その「平人」と比較して「穢多非人」は「御帳付」ではない「帳外者」であり、「身分賤しき」者である。「賤しい」とは、『広辞苑』によれば、「(蔑視・卑下すべきものに対する感情をあらわす)①身分や地位が低い、②貧しい・みすぼらしい、③とるにたりない、④下品である・おとっている・つたない・まずい」の意味である。「平人」との比較から、「身分賤しき」は「賤しい身分」に属する者(賤民と見做されていた)と理解してよいだろう。その「賤しい身分」の者が、「平人」に対して「非礼なる致し方」や「身分高ふり」の言動を行っているが、これは「不届」であるから「慎み礼儀正しく」するようにと戒めている。
江戸時代中・後期になるにつれ、「穢多非人」身分の者が「平人」身分との枠をこえた言動をおこなうようになったことを示している。身分制が崩れてきたのである。それゆえ、身分相応の生活と態度、他身分への言動(慎み・礼儀)を心得るように命じているのだ。
問うべきは、穢多や非人が「賤民」(賤民身分)であるかどうかではなく、身分制制度(身分制社会)そのものであると考えている。人間を「身分」に振り分け、「身分」固有の「役目」を与え、「身分」相互に上下・排除の<差別>を強要する支配体制(支配者・権力者)こそを問題とすべきである。極論すれば、武士であろうが百姓・町人であろうが、江戸時代の<身分制>そのものがおかしく、まちがいなのである。にもかかわらず、未だに「祖先の身分」をルーツとして後生大事に奉る人間がいる。「祖先を大事にすること」と「祖先の<身分>を大事にすること」はまったく異なる。
また、そのような言動に至る背景としては、穢多や非人に百姓や町人との身分差別をおかしいという意識、つまり「平人と同じである」という意識が拡がっている証左でもある。
◯1768(明和 5)
倉敷代官所、穢多・茶筅・隠亡などに取締令(小野家文書)
「小野家文書」は備中国窪屋郡倉敷村(現倉敷市)の庄屋史料である。
明和・安永期(1764~81)、幕府は穢多など賤民に対して統制を強める。幕府領であった倉敷においても倉敷代官所より、穢多・茶筌・隠亡に対して「身分をわきまえて行動する」よう命じている。
ここで注目すべきは「心衛違いたし脇差をさし、近郷を徘徊いたし」「大勢集り百姓へ喧嘩を仕掛」である。「目明し役」を命じた穢多頭へは「帯刀」を許可しているが、手下の者にも許可しているかは不明である。「心衛違」の解釈から、手下の者が「脇差」をさして<武士(同心)のように>見廻りをするようになったと推察できる。つまり、「役目」を勘違いして、武士身分にように振る舞い(威張った)、百姓に対しても「喧嘩を仕掛」けるなどを「がさつ」(横柄な態度)「不埒」であると厳しく咎めている。役目としての見廻りを「徘徊」と受け取っていることからもわかる。別の史料に「身分高振る舞い」ともあったことからも、賤民としての身分を役目から武士身分と勘違いした言動が目立つようになったのだろう。
背景には、商工業の発達にる富裕な商人や地主が経済力を高める一方で、幕府や藩など武士身分は支出の増大と借財に苦しみ、庶民は華美な生活や文化に憧れ、身分間の交流もすすみ、身分制度が揺らいできたことがある。つまり、封建社会の基盤である身分制度を維持するために、身分規制を強めようとしたと考えられる。
部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。