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「解放令反対一揆」(1):解放令の布達

1871(明治四)年8月28日に太政官布告として出された「解放令」が津山県庁から管内に布達されたのは,9月18日であった。

穢多非人等之称被廃候条,自今身分職業共平民同様たるへき事
  辛未 八月                 太 政 官
右之通被 仰出候付,此段相達候事
辛未 九月十八日 津 山 県 庁

しかし,何らの具体的な説明もないままの布告は,百姓や平人には青天の霹靂であり,動揺と混乱をあたえずにはおかなかった。

同年9月末には加茂谷(現津山市加茂町)の庄屋をはじめ農民達3~40人ほどが津山県庁に出向いて「穢多非人も平民同様にと仰せ出されているが,私達は承知できない。どうしても同様にしなければならないのなら,穢多非人を征伐いたすように願い出る」と強硬に訴え出ている。

穢多非人平民同様に被仰出候処,加茂谷より庄屋小前之荒増之者三四拾人も津山江出,同様之儀は不承知申出,是非同様に相成候はば穢多非人征伐可致由願候
(『山本忠兵衛日記』)

さらに10月には,勝北郡平村(現勝田郡勝央町)他54ヵ村の村役人たちが津山県庁に歎願書を出している。その内容を要約すれば,【…この度,穢多非人の称が廃止され職業も平民同様との達しがありましたが,末々まで洩れなく達しました。しかし,こと穢多については昔から貴賤の別が歴然としていたことは御上でもご承知のことと思います。別火のことは勿論,平民宅へ参りましても土間で取り扱いを受けていました。なお,穢多共においては数代にわたり平民の恵を受け,飢渇の難をしのいだことが少なくありません。今般の布告に対しては恐れながら私達一同承服いたしかねます。朝命の重大なることは十分承知いたしておりますが,昔からの旧習をすぐ改めることは困難であります。万一人心動揺して事件でも起こすようなことになったら大変であるから,従前通りにお願いします。】と,村方役人の立場から村落の秩序が乱れることを恐れ,解放令の延期を強く要望している。
また同じく10月に,東北条郡・西北条郡の村役人が連名で倉敷県庁に出した歎願書には,解放令布告による住民の深刻な動揺の様子が伝えられている。

乍恐以書附奉歎願候
当県御支配地美作国東北条郡西北条郡村々役人共奉申上候ハ,今度エタ非人之称御廃止,身分職業平民と同然たるへく御布告御座候ニ付,触渡候処,非人エタ之義は千古不易定格有之,確乎として尊卑之筋相立,上下之礼を尽し来候義ニて,今更,平民と同様たるへく被仰付候ては,忽然迷惑,長生老養之甲斐も無之様一途ニ被存,悲歎無此上御座候間,何卒従前之通り尊卑之差別相立,別てエタ共とは居火を同せざる様願立呉候様,百姓一同涕涙歎願仕候,一体旧習洗捨いたし難きは僻陬頑愚之常ニて御座候得共,今度之事件は格別弁別不仕,私共説得不相届心配罷在候,此上強て申付候ては如何様之儀出来候程も難計形情ニ御座候間,何卒格別之思召ヲ以,己前百姓一同願之通従前之振合を以互ニ渡世仕候様,更ニ御厳令被為降候様,其筋へ急度被為仰立,御裁許御座候迄之間も異変有之候様も不計候間,当分之内,御立法を以,人心鎮静仕候様被仰付,侮ニ万姓御救助被成下度,重畳奉懇願候,以上明治四年十月
(『加茂町史』瀬畑家文書)

これによれば,従来より穢多・非人とは上下の礼を尽くしており,自ずと「尊卑」の差別があったのだが,今度この差別が廃止され同様となると,何のために生きているのかわからなくなると嘆いているので,当分の間は従前通りにしてもらいたいとの歎願である。

「従前之通り尊卑之差別」「従前之振合」とは,如何なるものであるか。この「従前」という言葉に込められた意味内容を明らかにしておきたい。

津山藩領のエタ村十三か村の役務は,津山藩牢番役を命じられており,村別に割り当てを行い,役目を遂行していた。また,加茂町の史料に「従前エタと申テ死牛取扱致居候者」とあることから,弊牛馬の処理や掃除役も命じられていた。

また,明六一揆において津川原襲撃に加わり殺人罪で死刑となった小林久米蔵の口述書によると【…元身分(エタ)の通下駄傘等は村内より外は不相用,近村の平民へ用向,右之節は門外より草履を脱ぎ,途中にて出会候節は頭を地に下げ礼譲正敷可致】のが「従前通り」であった。

つまり,百姓にとってのエタ・非人は「千古不易定格有之,確乎として尊卑之筋相立,上下之礼を尽し来候義ニて」「居火を同せざる」存在であって,平人である自分たちは決して「同様」の存在にはなり得ないという認識があった。

これに対して,津山県は暫定的に「従前之振合に準拠し,双方共礼譲相守,柔和にいたし…」という触れを出している。百姓たちは,この触れを「当分従前通りに御触れ戻しに相成候」と受けとめる一方,騒動が勃発する気運を感じてもおり,騒動に備える村方取り決めを行ってもいる。

    村方儀定書之事
エタ非人平民同様可為事,従天朝被仰出候ニ付,諸国騒立候趣,就は当国村々騒立候様之風聞有之,村方一同心配仕,万一他所より多人数通来り候節は無拠難遁候得は,一日付添罷出候様申合置候,万一壱人ニても不参加致候ものは一日ニ銀札五拾目宛加料銭として立出し可申候て,村方一同引取候上は村端江小屋掛ケ住居為致候様申合儀定致置候,為後日之村方一同儀定連印致置候
以上
      明治四辛未年十一月十二日

つまり,他村から騒動の集団が来た時,村民のとるべき行動として村民一同連帯して参加することを取り決め,不参加者からは加料をとることまで決めて結束を図っている。

このような動向に対して,北条県では騒動の予防策として,あらためて次のような布達を管内に発している。

1872(明治五)年2月12日 「解放令」につき北条県有達
穢多・非人被廃ニ付左ノ通布達ス(北条県)
去辛未八月,穢多・非人ノ称呼被廃候ニ付,其段於元津山県相達候処,従来ノ習慣ニ怩ミ交接間不都合ヲ生シ候趣ニ付,於同県東京表へ相伺儀モ有之,且御沙汰相成候迄ハ先従前ノ振合ニ準拠シ,双方共礼譲相守リ粗暴ノ挙動無之様可致旨達置候処,右ハ性且万国ノ形勢ヲモ御洞察ノ上厚御趣意ヲ以テ天下一般被仰出候儀ニ付,一切採用下相成候条,示後双方共和順致シ不都合無之様厚ク可相心得候,尤元エタノ者共御趣意ニ甘へ倨倣ノ所業有之候テハ決シテ不相済事ニ候,尚追テ官員巡回委詳可申聞候ヘ共,心得違無之様可致,此段予メ及市発候候也

この布告によると,解放令が出されてから混乱があったので政府に取り扱いについて諮問し,その沙汰があるまでは旧慣習に従って行動するように命令していたが,政府の方針は解放令通りとする意向を変えないので,お互いに和順して行動するように心得ることを命じている。特に,エタに対しては増長を戒めている。

これらの史料からわかるのは,「解放令」を布達した官側と,受けとめた百姓との認識や意識のちがいであり,その背景にあるのは百姓のエタ非人に対する賤視観である。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。