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「渋染一揆」再考(11):身分と身形

「渋染一揆」の最大の謎は,「別段御触書」の【穢多衣類,無紋渋染藍染に限り候…】である。なぜ岡山藩は被差別民に「衣服統制」を命じたのだろうか。

次の史料は,「別段御触書」の13年前に出された法令である。この法令では【渋染藍染】ではなく,【衣類淺黄空色無地無紋】である。ただし,共通の文言がある。それは【平人ニ紛不申様別て下り可申】である。

穢多・隠亡之類,居小屋・衣類等平人ニ紛不申様別て下り可申,素商売等之義皮類は格別其外之義は堅不相成候事
「但居小屋其外瓦付并門かまい等致候者有之候ハヽ早々取払せ候事着類棒嶋可為事」
(穢多や隠亡たちの居小屋や衣類などは,平人と紛れないように,特に引き下がること。言うまでもなく,商売などについては皮類は特別とするが,その外の物については堅く禁止する。
「ただし,居小屋などに瓦を葺いたり,門構などをしている者があれば早急に取り払わせること。着物などは,棒縞とすること」)

衣類淺黄空色無地無紋,羽織・脇差差留但捕もの之節ハ脇差指免候事
(衣類は,浅黄色・空色・無地・無紋とすること。羽織・脇差は禁止する。ただし,捕物のときは,脇差は許可する。)
岡山藩(『御触書写』天保十三年[1842年])

なぜ天保期(元年:1830~十四年:1843)には,各藩の賤民に対する禁令が多く出されたのだろうか。「渋染一揆」だけが服制禁令ではないことも,以下の史料で確認できる。これら禁令に共通するのは「百姓町人に紛れざる様」「百姓に紛れ候」「百姓商人にも紛れ不埒のことに候」「平人躰ニ」「平人と相混」「在家江紛敷」である。つまり平人との<差異>を明らかにする目的であった。
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「身分と身形」を研究テーマとして開催された第24回九州地区部落解放史研究集会(2005年)で報告された九州各県の発表の記録と「史料」が長崎人権研究所紀要『もやい』(50号)に掲載されている。
その「史料」より「衣服規制」に関わる重要なものを転載する。

穢多共掛襟申渡之事
   申渡    穢多共
安永七戌年
一 右の者共,御城下廻且市廻,其外在町市場押えなど都而諸御用に罷出候節は,着物に黄色の襟を掛け申すべく候,是迄着類の差別これなく,紛わしきにつき,自今右の通り申付け候間,此段穢多共え堅く申付け,銘々堅く相守り心得違い致さざる様其方共より申渡すべき旨申渡様,郡奉行中申渡され候也
  八月   代官役
岡藩(「申渡」安永七年[1778年]8月)

申渡
此度穢多非人身分之儀ニ付,別紙之通公儀より被仰出候間,其旨申渡堅被相守可申候,万一心得違不埒於有之,急度被仰付候間,堅申渡被相守候様被取計候,
一 穢多共着類法外之儀有之候相聞,向後浅黄染・渋染に限可申候尤穢多共御用ニ出候節々掛致候様,着類夏冬共都て掛襟致,常々着可致候,万一心得違百姓町人ニ紛,不法之節於有之,急度可申付候
一 目明共之儀着類染色右同断,尤掛襟不及,是又百姓町人ニ紛れ不法之節於有之,急度可申付候
  戌十一月廿九日   郡奉行
岡藩(「申渡」安永七年[1778年]11月)

一,近来穢多共無何と風俗悪敷百姓町人ニ対し法外之振廻有之,不似合之身形等いたし,百姓町人ニ紛し候事共間々有之,就中百姓家・町家へ無差別戸口より内へ立入,合火等もいたし…
杵築藩(「万年記」天保七年[1836年])

一 穢多之義目印無之ニ付,郷内共ニ而は紛等敷義も在之,不宜趣ニ相聞候,巳後之儀ハ穢多男女共着物・羽織共ニ浅黄布木綿間長壱尺三寸ニ〆ゑりをさし着仕候様…
佐賀藩(安永九年[1780年])

一 近年日傘を差歩行候者在之,以前無之義ニ而風俗不宜候条,向後不依上下日傘をさし候義停止被仰付候事
佐賀藩(安永10年[1781年])

近年穢多共都而心得方僣上いたし,風俗花美ニ押移り,平人ニ越候行状も不少村役教示を加江候得共,頼りニ不心得之儀増長いたし,商売家は尚更,百姓家ニ参り候而も直内ニ入込,竈之下ニ而煙草呑付ケ,…
一 衣類染色之儀,紺・空色・千草・浅黄・鼠染之外,絵類形付等相用候儀堅停止申付候事
一 雨天之節傘相用候儀堅指留候,竹之皮笠・蓑相用候事
福岡藩(「中村文書より」年代不詳)

御城下にて穢多雨天之節ハ,竹の皮笠着用,平日,手拭・頭巾一切かふりもの堅無用之事,
小倉藩(「御書出シ写帳」享保十三年[1727年])

一,穢多共,無紋之衣類相用ひ,尤羽織不相成候事
一,若心得違之者有之候ハゝ,他郡之者たり共召捕,可及詮議事
小倉藩(「触書」文政八年[1825年])

一,衣類男女共木綿青染無紋可致着用候,形付紋付之着物又者幅広帯等着用いたし百姓ニ紛れ候ニおいて者咎可申付事
小倉藩(「御触書写」天保十三年[1842年])

…其上近来穢多共心得違をいたし平人ニ馴近付,田舎なとニてハ旅人之躰ニ出掛,脇差を帯し,田舎者を相欺交りをいたし候儀も有之哉ニ相聞…
一 穢多之印シ之為堤札を帯ニ付ケ候様申付置候処…
対馬藩(寛政七年[1795年])

これらの「史料」に共通するのは

①平人(百姓・町人)に紛れている現状があり,それを支配層(藩:武士)は「不心得」「不法」であると咎めていること,
②紛れないようにするため,すなわち平人との「身形」に差異をつけるために,「衣服統制」を行っていることである。

従来,「衣服統制」に関して「色に付随する差別」ばかりが論議されてきたが,私は命じる側の意図を問題にしたい。なぜなら,その意図が被差別民にとっては「差別」と受けとめる内容だから反発したのである。

「渋染一揆」の歎願書には,百姓に出された24か条については承諾するが,自分たち(穢多)のみに出された5か条については承伏できないとしている。つまり,平人と同じ扱いを求めているのである。

如何なる目的・理由であろうとも,また,その当時の社会が差別を容認(当然と)していた(身分制社会であった)としても,差別-被差別の関係はあったと考える。要は,そのような社会を認めるか否定するかである。
過去に学び,差別を否定する思想と生き方を自分のものとして現在をどう生きていくかだと思う。

私は,いかに職務であろうが何であろうが,身分によって服装を規制するような社会を肯定しない。学校や職場における制服と,日常生活全般における服制禁令とはまったく意味が異なる。何でもかんでも混ぜ合わせて論じると本質を見失うことになる。

服制禁令は被差別民だけでなく百姓・町人にも出されているし,武士にも出されている。細かい規定では,むしろ武士身分の方が厳密であり,厳守されていた。服制禁令は被差別民に対する差別法令という面からではなく,身分制社会のありかたという面から考える必要がある。
つまり,身分制社会においては「身分の格」こそが重要であり,それを明確に表示する必要があった。身分の格を「身分の差異」として明らかにさせるための服制禁令である。

部落史・ハンセン病問題・人権問題は終生のライフワークと思っています。埋没させてはいけない貴重な史資料を残すことは責務と思っています。そのために善意を活用させてもらい、公開していきたいと考えています。