人の心の多面性と付き合い、自分からみた周りの人は必ずしも「全く善人」でも「全く悪人」でもないことについて
私は、川崎の長屋の佇まいの残る町で生まれ育ちました。
そこでみた、友達付き合いの方法が今でも心に残ります。
あるとき、私に、なぜか反発し続ける子がいて、
「考え方が合わない子だな」と、思ったのですが、
それでも、お互いに気になって小競り合いしてました。
周りは、
「両方悪い、えみちゃんも悪いよ、気にしなきゃいいんだ」
と、言っていましたが、私は気になって、なかなか引けませんでした。
けれど、少し離れた時期があったあと、公園で野球などをしているときに、いつの間にか仲良く遊んでいました。
それ以来、お互い深いことは言わなくなりました。
深いことを言って、小競り合いをしても疲れるし、みんなで遊んでいると、その時間がもったいなく思えたのです。
幼いころは、近所の子と喧嘩しては、くっついた。そんな、夢見るころをつい最近まで真実だと思っていました。
けれど、誤解でいつまでも私を許してくれない人もいる。また、私も誰かを誤解しているかもです。
心理学でも、ヨガ哲学でも、人間には様々な感情があるといいます。
良い感情も、悪い感情も。
自分の心を見つめても、どんな人でも醜い感情と美しい高尚な感情があります。
周りの人もそうなんです。
友達のなかで、そのどちらかの心が、強く見える時期があります。
そのどちらかを信じるかです、と私は思ってます。
人の評価って、長いときに、
「この子は、努力家だ」
と、思うときと、
「この子は、悲観的で何もしない」と思うときが、ありました。親友P(20年来の友達)のときのことです。ありあまる知識を披露された時期と、彼女が打ちひしがれて自身で何も決められない時期があったのです。
不変のものってあるのでしょうか?
永遠に変わらないものって?
あるとしたら、教えてください。
人には、様々な感情があって、
様々な時期がある。
それを覚えていて自分の中で、自分をも見つめ、人というものを知りたい。
そして、悪い感情であっても共感し、決して赦すのではなくて、「ある」ということを識りたい。
「悪」は、あります。どんなに認めたくなくても自分の心のなかに。それを赦さず、外に出さずに昇華する。
自分のなかで昇華する。
「悪」は、あります。それを、明け晒して信用を失うのはあっという間です。
だから、自分を常に見つめることが必要なんです。
古代から東方には、「陰陽」の考えがあって、
世の中には「陰」と「陽」があるといいます。その両方がないと、この世のバランスがとれない、と言います。
私は、以前、この世には「神のパワー」と、「魔界のパワー」があり、両方あって、はじめて人は成長していくのだ、と、聞きました。
宗教的で、耳障りでしたら申し訳ないのですが、
「昼」と「夜」のように、
「善」と「悪」の心がないと人は成長しないといわれます。
決して良いことばかりあっても。
負けた人の心が分からなければ、心の深みのある人にはなれません。
道端で転んだ人をみても、
転んだことが全くない人は笑うでしょう。
「陰」と「陽」があって、人は初めて深みのある人間になります。
私は、ヨガの哲学で、一昨年の秋にその自分の「悪」を見つめることを習いました。けれど、それがとても大変で。
そして、自分を見つめていると、かなりの悪人だと識りました。
しかし、それを識ると、ほかの人の物凄い心の悲しさというか、苦しいのが少しだけ分かるような気になってきました。人に意地悪する人の気持も。
そうすると、「免疫」が出来るんです。
身体に弱めるなどした病原体を植え付けてつくるあの「免疫」と、似ています。
自分にも、ある、と認めると、似たような感情を他人から向けられても少しダメージが減る……。
人間は、成長しないと私は損だと思います。
大人らしさという、姿やマナーだけでなく、
そういった、哲学的なものも、自分で育てなくてはならないと思うんです。
新しく悟ったり、智慧が授かったら、柔軟に処理していかないと、と思います。
©2024.3.31.山田えみこ
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