ともし火 -彼-
カフェで待ち合わせたときの遠目に見た彼女のいる景色は、秋の始まりに合う少しロマンチックな絵のように見えた。
ああ、この人だ。と思いつつ、その景色を見ていたくてその場に少しと留まって眺めていた。
彼女の少し緊張したような面持ちが自分を高揚させる。
ここから新しい物語が始まるような淡い期待が自分の心をときめかせた。
彼女の座る席に近づくとテーブルに置いてあるキャンドルの灯が揺らぎ、彼女の柔そうな髪と、窓の外に見える街路樹の葉が一斉に動きを見せた。
そして人懐っこい彼女の笑顔が飛び込んできた。
こんな笑顔を見せる人なのか。クールで知的な印象を持っていた自分にとっては驚きがあった。
彼女の横に座ると想像よりも距離が近く、気持ちが舞い上がったまま落ち着かない。
仕事の話から始まって、日々の何気ないできごとについて話していたつもりが、いつの間にか自分のプライベートを話していた。
若いうちに結婚したその相手は子連れだったこと、今は離婚して離れて暮らしているその子がバンドを始めて、自分が使っていたギターを使ってくれていてうれしいこと。息子と共通の話題があることがうれしい反面自分が若い時代に弾いていた曲とはテイストが全く違く、時代は変わってしまったのだという焦燥感を感じる時があること。猫を飼っているが、家にいる時間が少ないせいでまるで自分が猫に飼われているような気分になること…
自分のことをベラベラと話し続けてしまう自分に気づきながらも、なかなか制御できなかった。
彼女は僕の話に人懐っこい笑顔で「これまでずいぶん冒険していらしたんですね」と言った。
「すごく楽しそうです。同じ時間過ごしていても私、仕事しかしてこなかったなぁって。」そう言ってテーブルに置いてあったキャンドルを自分の方に近づけて覗いた。
温かな光が揺らめいて彼女の瞳をより美しく照らした。
「こういう落ち着いた時間も久しぶりです。昔はキャンドルとか好きで家で眺めてリラックスしたりしてたんですけれど」
日々仕事に没頭して忙しく働いている彼女の姿を想像したその時、メッセージをやり取りし初めた頃に彼女に抱いた印象が思い出された。
質問に対して返ってくる返事はいつも簡潔だが丁寧で的を得ていた。
今、自分の隣に実在しているふんわりと柔らかな姿はもしかして自分しか知らないのではないかとますます浮足立った。
互いにのグラスの中身が無くなったとき、この人との空間にもっと身を浸したいと強く思っていた。
店を出てから、もう一軒寄ろうと辺りを見渡してみたが店の数が多すぎてどこが最適か瞬時には選べなかった。
歩きながら探そうかと考えたその時、彼女から小さな紙袋が差し出された。
「チョコレートです。お好きだと伺ったので、忙しい毎日の癒しにでもなればと思って。ハロウィンのパッケージでかわいくなっていますが、中身はビターのおいしいチョコなので是非。」
相変わらず人懐っこい笑顔で、お菓子をもらう側なのにまるでトリックオアトリートと言われたような楽しい気分になった。
おかげで、かっこつける気持ちが解れて「もう一軒お誘いしたいのですが、情けないことにいい店を知らずどうしようかと思っていたところなんです。どこかおすすめのお店とか知りませんか?」と素直な言葉が出てきた。
彼女のおすすめだというBarは半地下にあり、都会の喧騒を感じさせない静かな空間だった。
席に着き彼女の方を見るとやはりここでも絵画に描かれた女性のような美しさが隣にあった。
また舞い上がる自分の心を落ち着かせながらルシアンを頼んだ。バーテンダーは迷っている彼女におすすめを紹介していた。その話を聞いている彼女の横顔の美しさに見とれつつ、その美しさの根源を考えていた。
造形なのか、雰囲気なのか…両方なのか。
美しい光景と自分を包みこむ静かで、温かで、絵のように無風の瞬間。
オーダーしたカクテルを待つ彼女に夕凪について語っていた。
父親が広島出身の自分にとって思い出深い親父との会話。
グラスの中のカクテルが減るのが彼女との時間の終わりを告げる砂時計のようで歯痒かった。
時期は1カ月先だがどうにか次に会う約束を取り付けた。
駅で彼女を見送り、自分も電車に乗ると今夜過ごした時間がキャンドルの火のように煌めき自分の心を温めてくれた。
いい時間だった。
と、スマホに届いている新着メッセージ6件が現実に戻す。
最近アプリを通じて知り合った女性からだ。要件1件を小分けにして送ってくる。
夏の初めに知り合った彼女は積極的で、はじめから好意を見せてくれたので自信損失していた自分にとっては親しみやすかった。早くカタチに収まりたい様子は見て取れたがなんとなく先延ばしにしていた。
そんな時今日の彼女と知り合ってしまった。
一気に気持ちが沈んで、電車のシートに腰かけた。
泥に飲み込まれるようにからだが重い。
こういう終わりもあるのかな。
夕凪の時間が終わったのを感じた。ここからはまた風が吹き始める。
数日後、メッセージを送った。不本意ながら。
もう会えない、来月の約束も忘れてほしいと。
何度も直しながら、結局訳の分からない文章を送ってしまった。
あの日感じた、新しい物語が始まるような期待感は冒険に出る前の不安に満ちた緊張感に変わっていた。
あれから2週間がたち、一気に寒くなり乾いた秋の風に心底寂しさを感じている。自分はまた孤独な旅をしているのかもしれない。
またいつか、「ずいぶん冒険していらしたんですね」と言ってもらえるだろうか。
暑い夏の夕方にふと風が止まる静かな時間。今思えば彼女と過ごしたあのひと時はまさに夕凪だった。
今は海風から陸風に切り替わったのだ。
冷えた陸風に乗って海に掃きだされた自分を思い浮かべながら、出航前の今、あのBarへ寄ろうと決めた。
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