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【竹内栖鳳展】山種美術館 新しい鯛 出現に歓喜

山種美術館で没後80年記念竹内栖鳳展が開催中。紹介画像の右側、 甘鯛(ぐじ) の絵が今回の展覧会で初公開される。左はおなじみの鯛。どちらも題名は同じ〈海幸〉

彼の描く鯛の色合いの美しさが大好きで、見る度にその美しさに惚れ惚れしてしまう。

動物を描けばその体臭までも表すという竹内栖鳳

明治 33 年の渡欧時に,コローやターナーの絵から影響を受けたとされ、当時最新の西洋画や写真の要素までも貪欲に取り入れ、日本の伝統的な絵画と西洋絵画の長所を融合させた美しい作品を描いた

今回の展覧会以外の作品も含め、好きな作品集めました


※鯛が好き過ぎて鯛成分多め
※今回の展覧会展示作品は題名に「今回展示」と記載




◼️【特別展】没後80年記念竹内栖鳳 

山種美術館
2022年10月6日(木)〜12月4日(日)
 ※会期中、一部展示替えあり
前期10月6日(木)-11月6日(日)
後期11月8日(火)-12月4日(日)

展覧会へ行った後の記事はこちら




◼️やさしさと気品にあふれる作品を紹介

展覧会以外の作品も含まれます
まれに強め作品も含まれます(衝撃なライオン)



海幸 (今回展示)初公開

今回の展覧会で初公開
《海幸》(個人蔵)

京料理でよく使われる甘鯛(ぐじ)が描かれている
何て可愛いいの、何て綺麗な色
嬉しい!!!!

世の中には他にも鯛の作品あるのかしら
全国の栖鳳の魚作品求む
甘鯛(ぐじ)
調べるとこんなに綺麗な色、自然界すごい
甘鯛の日本での地方名は
オキツダイ(静岡)、グジ(京都・舞鶴・大阪)、
クズナ(大阪・福岡・壱岐)、
コビリ、コビル(山陰地方)、スナゴ(愛媛)等がある
-wiki情報 なるほど学習した-

京都と大阪で呼び方違うの興味深い
住むところがズレていたら
クズナとかコビリと呼んでいた



 

海幸

海幸 昭和11年(1936)頃  MOA美術館

実物の色合いはもっともっと綺麗!
目のあたりの薄い青など、息を呑む美しさ
竹内栖鳳の絵で最も好きな作品
リアル鯛画像
※この画像の鯛 表情カワイイ 眠そう




竹内栖鳳の魚を語った言葉

「 新鮮な魚の色は本当に美しい。見れば見るほど美しい
吾々はよくそうした新鮮な魚を市場で見て、
美しい色だと思う。陸の花よりも美しい」 
栖鳳は鯛、鯖、鰹等の色彩の美をあらわした



この鯛の作品を見る度に「なんて美しいのだ」と感動
この言葉を知り、竹内栖鳳にシンパシーを感じた。
栖鳳が語る魚、完全に同意!
私も市場の新鮮な魚の宝石のような輝きに感動している

栖鳳の魚への溢れ出る感動からくる「美しさ」納得



(派生情報)竹内栖鳳にシンパシー  新鮮な魚に感動

道の駅でみつけた宝石みたいな魚 思わず激写(購入)
島根県産 イトヨリ鯛

特徴)細長く、やや側扁(左右に平たい)する頭部のすぐ後ろ、
肩にあたる部分に小さな赤い斑紋がある
体側に黄色い筋状の文様が走り、尾鰭(おびれ)上葉が糸状に伸びる

 栖鳳、イトヨリの絵書いていないかしら?!
イトヨリという名で売っていたので、
イトヨリという種類の魚かと思ったら鯛

結論、鯛は美しい


(解説)東京国立近代美術館所蔵の海幸

1942年 竹内栖鳳77歳 最晩年に書かれた作品
一見、鯛を描いた「おめでたい」絵に見えるが、描かれた時代背景を紐解くと、この絵の違った一面が



班猫 (今回展示)【重要文化財】


班猫 1924(大正 13)年

動物画の傑作にして栖鳳の代表作
モデルとなった猫は栖鳳が沼津に滞在していた時、
偶然見つけた近所の八百屋のおかみさんの愛猫で、
その姿に中国南宋時代の徽宗皇帝の描いた猫を想起し、
絵心がかき立てられたため、
交渉して譲り受けて京都に連れ帰り、
日夜、画室に自由に遊ばせながら丹念に観察して作品に仕上げた
 データ元はこちら
近づくと エメラルドグリーンの瞳
実物を(しかもできるだけ間近で)観ないと
この絵の良さが伝わりきれないとのこと、
早く見たい
名画にその姿を残すこととなった選ばれしネコ
竹内栖鳳の最高傑作を生みだしたネコ



(余談である)養老孟司先生と 愛猫 「まる」

養老先生もまるから色んなアイデアを得ていた
まるで絵のように美しい まる とのドキュメント
養老先生の鎌倉の家と周りの自然が素敵 
PR動画こちら
        オススメ動画こちら ナレーション松坂桃李!

      ー創造の源 偉大なる ネコー






ベニスの月

ベニスの月」明治40(1907)年 大英博物館蔵 
(ビロード友禅/四代飯田新七作、竹内栖鳳原画) 

多くの画家たちと同様、日本画の革新に関心を持っていた栖鳳は、自らの画塾で海外の美術文献の講読会を開催するなど、
早くから西洋絵画の学習を始め、1900年(明治33年)にパリ万博を視察するためにヨーロッパへと渡る

各地の美術館や美術学校の見学、動物園でのライオンの写生、
黒田清輝がフランス留学中に師事したラファエル・コランほか、西洋の画家たちへの面会など活発に動き回って、
作品そのものから教育システムまで含む、
ヨーロッパの美術の体系を学び、
日本での新しい指針作りに生かそうとしていた
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翠竹野雀

「翠竹野雀」 昭和8 – 9年(1933 – 34)頃 MOA美術館

栖鳳が晩年湯河原で制作した作品で、
風に揺れる竹に一羽の雀が舞う一瞬を
軽妙なタッチで表している
雀の拡大部分

栖鳳は雀好きで、様々な雀を描き、
「その鳴き声まであらわした」と評判だった

栖鳳は、『雀を描くことは中々難しい。
他の鳥と違ってチュ!と啼く。画家はやはりそのチュ!を
描くことを心掛けねばならない。
絵というものは矢張り単なる写実では到底満足できない
ものだろうと思う』と言って、雀を描き続けた 

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現物はもっと色が綺麗!爽やかな竹とカワイイ雀

インスタの動画リンク





夏鹿

夏鹿」昭和11年(1936)MOA美術館蔵

六曲一双屏風の右隻いっぱいに描かれた鹿の群れ
雄鹿を中央に、雌鹿や小鹿がゆるやかに群がるという
計算された構図
夏毛は茶色に白斑があるのがニホンジカの特徴
斑点があらわれた夏の鹿を描いたもの
右には群れる鹿を、左には跳びはねる一頭の鹿を表し、
静と動の対比をみせている
第一回新文展招待展に出品された竹内栖鳳の代表作の一つ
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左隻(させき)、左の屏風に描かれた
一匹がぴょーんとしてるところがポイント
このセンスたるや!!
部分拡大





緑池 (今回展示)


緑池  1927年 山種美術館 

蛙を庭に飼い、雄雌が判別できるようになるほど
毎日観察していた。水面下に透けて見える蛙の身体の表現や、
池の水もわずかな色だけで表現されている
栖鳳の画技の高さを感じる
※拡大画像
元データ こちら

こんなに水面下に沈む様を綺麗に描けるのスゴイィ





蓮に蛙

蓮に蛙 昭和2年(1927) MOA美術館   ※部分拡大

蓮の葉が鮮やかな色彩を放つ池の中で、
1匹の蛙が水面を泳いでいる。栖鳳は四季の草花を自庭に植え、季節ごとの表情を楽しんでいた。蓮もその一つで
「実に上品な、柔らかいよい色彩」だと気に入っていた
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物思いにふけっているふうの蛙可愛い




潮沙去来

潮沙去来 昭和5年(1930)MOA美術館

[卓越した技巧]  
渡欧により、西洋絵画の写実技法を取り入れつつも、
日本ならではの特色を保ちながら、
日本人が和歌や俳句などにも見出してきた伝統的な自然美を描いた。栖鳳の制作は一貫して実物観察による写生から出発しが、制作の各段階でさまざまな要素を取捨選択した上で、動物や風景、水の表現等、洗練された筆致で情趣あふれる作品を生み出した
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とにかく色が綺麗 そして優しい





老松蒼鷹

老松蒼鷹 大正5年(1916)頃 MOA美術館

老松の大樹の枝にとまる鷹を描いた作品
松葉の色彩が樹肌に映えている
鷹の鋭い目、くちばし、足などの巧みな描写も魅力
落款の「霞中庵」は、
明治45年(1912)栖鳳が京都・嵯峨野に建てた画室の号元
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カッコイイ鷹と青い部分の美しさ

全体像↓  画像クリック






獅子

獅子 明治37年 足立美術館 

明治33年、栖鳳はパリ万国博覧会視察のため渡欧そこで初めてライオンを目にした栖鳳は熱心に写生をし、帰国後発表した作品日本画でこのリアルな迫力 衝撃作
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禁城松翠

禁城松翠 昭和3年(1928)

禁城とは、戦前まで皇居のことをさした
近景のお濠の輝く水面から遠景の櫓までを捉えた
奥深い空間に溶けつつも浮き上がる樹木のシルエットは、
コローやターナーの絵から学んだ方法
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西洋絵画とのハイブリッド
松の飛び出る立体感が斬新

  


雪中躁雀図

雪中躁雀図 (せっちゅうそうじゃくず)明治32年頃 1899年
海の見える杜美術館

栖鳳の雀好きが滲み出る 遊んでる雀キュン

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近くで見るとより分かる 雀楽しそう!




喜雀

喜雀 昭和15年(1940) 部分拡大 町立湯河原美術館

栖鳳が湯河原を訪れたのは、昭和6年頃とされ、
夏目漱石も逗留した旅館・天野屋を度々を訪れるうち、
その敷地内に住居と画室を建て、
晩年のほとんどをこの地で過ごした。
この作品は、栖鳳得意の雀を配した金屏風で、
湯河原に長く滞在した記念にと描かれた
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名前がイイ 喜ぶ雀 溢れ出る雀愛





風かおる(今回展示)

風かおる 1937(昭和12) 山種美術館

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麦秋

麦秋(ばくしゅう)大正15年頃 1926年

栖鳳の青に惹かれる





雪月花

雪月花》竹内栖鳳・横山大観・川合玉堂 合作

大観は栖鳳も東京で活動しないかと声をかけたが、
断られてしまった。
しかし、大観は栖鳳に対してリスペクトがあったと思われる。 京都画壇と東京画壇。
両者に繋がりがあるイメージはあまりないかもしれないが
実際には両者の間には盛んな交流があり、
時には合作も行ってる
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福田美術館の栖鳳展で展示された「京都画壇」人物相関図
※展示作品の画家で構成。全員ではない
こういった相関図分かりやすくてイイ
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スエズ景色(現存する唯一の油絵)

スエズ景色 明治34年(1901) 海の見える杜美術館

栖鳳はパリで開催されている万国博覧会を視察するため、
およそ半年の間、ヨーロッパを巡る旅に出た
この旅の道中、スエズ運河を通っており、その様子を

「紅海近傍は広漠たる沙土天に連り、
亞刺比亞(アラビア)・亞弗利加(アフリカ)の間を
通過せる蘇士(スエズ)の運河に入りて
駱駝(らくだ)の遊べるを見る
又両岸は狭くして船を並べて通過することを許さず」と、
家族に宛てた葉書に記している

1901年に京都で発会した洋画団体の
関西美術会(後の関西美術院)に出品され、
実業家に渡った後、長らく所在不明となっていたが
2014年に113年ぶりに公開された
元データこちら 
ニュース映像こちら

スエズ景色 題名が椎名林檎感あるw
「スエズ景色」の構図に酷似する写真
栖鳳が渡欧中に購入したとみられる
(海の見える杜美術館蔵)
「スエズ景色」 長らく所在不明だった空白期間 興味深い
「二楽荘」のインド室を撮影した写真絵はがき(個人蔵)

白丸部分に「スエズ景色」と酷似した絵が掛かっている 
かつて神戸・六甲山の中腹にあった
浄土真宗本願寺派第22世宗主大谷光瑞(こうずい)
(1876~1948年)の別荘
「二楽荘(にらくそう)1909年完成・1932年焼失」に
一時飾られていた可能性が高いことが分かった

スエズ景色は栖鳳唯一の本格的な油絵で、
昭和初めごろには滋賀・長浜の実業家が所有していたが、
長く行方不明となっていた。
2011年、広島県の「海の見える杜(もり)美術館」が
京都市の画商から入手

図書館司書の方が、龍谷大龍谷ミュージアムで開催された
特別展「二楽荘と大谷探検隊」を鑑賞した際、
二楽荘内のインド室を撮った写真絵はがきに、
「スエズ景色」とよく似た絵が写っているのを発見、
指摘したことで判明

栖鳳の重要な絵画の所在の空白期を埋める貴重な発見となった





羅馬之図(ろーまのず)

羅馬之図(左隻) 明治36年(1903)
海の見える杜美術館
羅馬之図(右隻) 明治36年(1903)
海の見える杜美術館 
全体像 (1m45 × 3m73  ×2枚)   かなり大きい

日本画でありながら、セピア色で描かれている
古代ローマの遺構として名高いパラティーノの丘の情景

ローマ時代の水道橋は、モチーフの大小や色彩の濃淡によって、
遠近法的な効果を生み出しながらも、
水墨による山水図を思わせる感覚を失ってはいない
和と洋の手法を融合させ、日本画の新たな境地を開拓

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日本画と思えないタッチ!!




■明治33年の渡欧による影響

渡欧したころの竹内栖鳳
栖鳳は約7カ月の視察旅行で、
英国やフランス、ドイツ、イタリアなどを訪問
美術館や寺院で名画の数々を見て回り、
動物園でライオンを写生した
パリでは画家ジャンレオン・ジェロームらと面談し、
ドイツの美術学校で裸体デッサンの様子を見学するなど、
西洋美術の研究に努めた。
英国の巨匠ターナーやフランスのコローらの作品から
影響を受けたとされる

渡欧が栖鳳にとって転機となる貴重な体験だったことは
疑いがないようで、これを境に、
雅号を「棲鳳(せいほう)」から「栖鳳」に改めた
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パリで面談した画家 ジェローム

 左)ジャンレオン・ジェローム      
 右)「闘鶏」ジェローム作 オルセー美術館


影響を受けた画家 ターナー

ウィリアム・ターナー 『戦艦テメレール号』1838年 
 ナショナル・ギャラリー蔵
イギリス最高の風景画家と称される 


影響を受けた画家 コロー

モルトフォンテーヌの思い出 カミーユ・コロー 1864年
 ルーブル美術館




◼️フリードリヒ作品にも近いものあり?!

海辺の修道士 1808-1810年
ベルリン美術館
雪の中の修道院墓地 1817年から1819年

第二次世界大戦の空襲により失われた作品
現在では白黒の写真が残るのみ。神秘的な修道院の廃墟 

栖鳳はターナーやコローに影響を受けということであるが、
羅馬之図はフリードリヒの絵に影響を受けている感あり
という説の情報を見て
がぜん気になるフリードリヒ

これら作品は、ひじょーに不穏な雰囲気の絵





◼️入江波光  気になる(脱線)

蒼林図 大正12年 1923 東京国立近代美術館

入江波光 (1887-1948) 
竹内栖鳳らに師事
「大正11(1922)年春の渡欧中に、
ポンペイの壁画や中世のフレスコ画に接したことが
決定的な意味をもった。画面はますます浪漫的で甘美になり、
あたかも時が止まったかのような静けさを帯びるようになった
こうした、どこかしら日本ばなれした静けさは、
滞欧作とおもわれるこの《蒼林図》からも
はっきりと見てとれる
神経の行き届いた細やかな描写と、
フレスコ画をおもわせる柔らかな色調によって、
すべては模糊とした深みのうちにあり、 
溢れるような情感をたたえている」

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栖鳳を調べていたら、入江波光のこれも日本画?!
という作品に遭遇。こちらも渡欧の影響
がぜん気になる入江波光  名前も凄い、波の光!


臨海の村 大正8年(1919)福田美術館蔵

タイミング的に渡欧前の作
晩年は古画の模写に精力を費やし、
法隆寺金堂壁画の模写にも参加
《臨海の村》はごつごつとした海岸の丘に家が建ち並び、
奥行きを感じる

ひじょーに不思議ななんともいえない絵
時代もどこの国の設定なのかもパッと見て分からない 

異次元作品
部分拡大
近づくとより異次元

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福田美術館で
こんなに可愛いものが提供されていた
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▪️文筆家さながら言葉の表現も素晴らしい

 


◼️竹内栖鳳 経歴


簡略経歴 と猫の話

詳細 経歴

竹内栖鳳 経歴
竹内栖鳳は「東の大観、西の栖鳳」と並び称された、
明治から昭和に至る京都画壇の中心的人物
近代日本画の先駆者であり最高峰

1864(元治元)年、京都府京都市上京区に生まれる。
父は料理屋「亀政」の主。13歳で四条派の画家に絵を学び、17歳で幸野楳嶺に師事。「楳嶺四天王」のひとりとして頭角を現し、83(明治16)年より、菊池芳文らとともに京都府画学校(現・京都市立芸術大学)の出仕となった

翌年、第2回内国絵画共進会に出品し褒状を受け、以降、内国勧業博覧会、日本美術協会、青年絵画共進会、日本絵画協会などに出品し、数々の受賞を続ける

87年、西陣の織物業を営む高山家の長女と結婚、
「亀政」の筋向かいに住み、画家として開業。
教職のほか髙島屋意匠部にも勤務し美術染織品の意匠に携わる

師の楳嶺が没した95年には、京都市立美術工芸学校の教諭、
日本青年絵画共進会の審査員となる

1900年、パリ万国博覧会の視察を任命され、およそ半年の期間、渡欧。各流派の筆意が混在した画風が一時は「鵺派」とも揶揄されたが、以降、円山四条派の伝統的な写生を基礎に、
西洋絵画や中国古典絵画の写実性を取り入れ、代表作《斑猫》(1924)に見られるような、独自の日本画を確立していく

07年より文展の審査員を務め、13(大正2)年に帝室技芸員となる。37(昭和12)年、文化勲章を受章。晩年はたびたび病臥に伏しながらも絵筆を執り続け、42年、78歳の生涯を閉じた
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◼️町立湯河原美術館Google Arts & Culture 竹内栖鳳作品公開

栖鳳が晩年を過ごした湯河原。世界中のアート作品を鑑賞できる「Google Arts & Culture」で竹内栖鳳の作品他、高画質で所蔵品閲覧できます。AR拡張現実機能もあり


おわり




◼️参考




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