病んでいない、飢えている。
前書き
少し前に、「帰ってきたヒトラー」という映画を観た。
ヒトラーが現代に転生し、芸人として話題を掴み、政治的なインフルエンサーのようになっていく話だ。
最後に、ある男が、「これはそっくりさんではなく、本物のヒトラーだ!」と気づく。
しかし、彼は狂人扱いされ、犯罪者として収監されてしまう。
世が狂っているのであれば、そこで生きる人間もおかしくなるのが常だが、皆がおかしくなってしまえば、本来当たり前の反応も「異常」となってしまう。
正と負はコインの裏表であり、「正しさ」は危ういものだと警鐘を鳴らす、なかなかよくできた映画であった。
僕が働く学校、教育現場にもこれは当てはまる。もう完全に腐敗して、おかしくなっている。そこで普通の顔をしてやっていける人は、すごいと思う。でも、全然うらやましくない。
病んでない、飢えている(本文)
芥川龍之介と言えば、教科書に載っていることもあり、「羅生門」や「蜘蛛の糸」、「トロッコ」等が有名であるが、僕が好むのは、晩年の作品だ。
彼の最期の年である昭和二年に発表された『歯車』という作品がある。歯車や不吉なレエン・コートのモチーフが、彼の病み切った心理を見事に描いている。
精神を病んだ、天才の書く文章。
すぐれて完成度の高い、僕の中では彼の最高傑作である。このすぐ後に、彼は「ぼんやりとした不安」を理由に、自らその生涯を終焉させた。
歴史の教科書では、「大正モダン」「大正デモクラシー」などという言葉にもてはやされ、華々しい新しい時代のように謳われるが、大正時代の文学は、芥川龍之介や志賀直哉のような天才が華々しく活躍した一方で、第一次世界大戦の影響による社会停滞の影響もあり、後に「憂鬱の系譜」と名付けられるほど、灰色の時代であった。
「得体の知れない不吉な塊」が脳裏から離れない男を描いた梶井基次郎の『檸檬』や、「病める薔薇」の別名を持ち、庭の薔薇とリンクして精神を病んでいく、佐藤春夫の『田園の憂鬱』などがその最たる例だ。
以下に引くのは、萩原朔太郎の名作、『遺伝』という詩だ。彼は最近まで中学二年生に教えていた高村光太郎と双璧を為す、日本の口語自由詩を切り拓いた男である。
——100年前に書かれた文学が、渦を描いて現代に蘇生するようである。
「不吉な塊」に翻弄された生活に奪われたもの、奪われるはずはないのに失われたもの、自ら捨てたもの。
恨むしかない、吠えるしかない。それでも、戦わなければならない。
はた目には、正常には映らないかもしれない。だが、オカシイはずがない。
「病んで」いるのではない、「飢えて」いるのだ。
憂鬱の系譜が引き継がれそうなこの時代でも、手に入れたいものがあるから飢えている。「病んで」と称すのは、降参者の烙印である。
あとがき
僕は15年ほど、教師を続けています。この10年くらいでも、びっくりするくらい、子どもたちは変わりました。
きっと、40歳くらいの人が親になり、30年ぶりくらいに小学校に行ったら、卒倒するでしょう。
そのくらい子どもたちも変わりましたが、おかげで、教師も変り果てました。質のひくいひくい。
やっぱり、ただ変わらないものは、学問の純粋さと深遠さ、だけなんじゃないかなと思います。あとは、若いって素晴らしいということ。