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地方移住は幸せの結末じゃない!逃避行ワーケーションは何のため?

“田舎に移住できた二人は、幸せに暮らしましたとさ”

ディズニー作品の最後のナレーションは、現実の人生ストーリーではなかなか流れないことを肌で感じている石原侑美です。

東京から岐阜・飛騨高山に移住してもうすぐ2年が経ちます。4月上旬の飛騨は、雪が完全に溶けて、虫や動物たちがむくむくと動き出し、春らしい陽気になってきました。

私の仕事はほとんどオンラインで完結します。なので、どこでも仕事ができます。自宅でもよし、カフェでもよし。典型的な移住型リモートワーカーですから、周りからは「最先端のライフスタイルだよね」とたびたび言われます。

自然に囲まれて、田舎生活を思う存分味わっていますが、そんな私でも移住当初には想定していなかったことがありました。
それは、

気分転換がしたい!
移動したい!

と猛烈な衝動に駆られること。

今日は、そんな田舎移住者の移動の衝動と心の叫びを聴いてください。

日常的に綺麗な空気を吸っても、気分転換は必要

リモートワークをしていると、1日のほとんどはパソコンと向き合います。スマホも触ります。私の場合は、アップルウォッチもつけます。終日デジタルにまみれ、あらゆるアプリから通知が来て、Googleカレンダーにスケジュール管理される日々。いや、これらはとても便利なんですよ!本当にありがたい!

でも、ずっと支配され続ける窮屈さも感じます。そんな時は、外へ散歩に出かけます。

外に出ると、川が流れる水の音、虫の声、草の匂い、日差しが気持ちよく、近所の田んぼ道を歩きます。すると、畑ではご近所さんが畑作業に勤しんでいます。

「こんにちは。今日は暖かいねぇ」
天気の話題は人と人とを繋げるのと同時に、畑作業をする人たちにとっては重要な情報なのです。害獣の出没状況についてもよく話します。

と、のほほんとした気分でいたら、ご近所さんが続けて私に尋ねます。
「ところで、今日は旦那さんと一緒じゃないの?」
「この前、石原さん家の前に停まっていた赤い車は〇〇町の親戚かい?」
「市役所の〇〇さんから聞いたけど、石原さんご活躍だそうで」

矢継ぎ早に質問され、淡々と愛想良く答えた私は、家に帰るとなんとも言えないぐったり感が襲います。そのままコタツで丸くなって昼寝…。

そう、この田舎独特の人間関係の狭さは、広大な自然とは真逆の、圧迫感のある窮屈さなのです。田舎生活では、車や車のナンバーで誰の車なのかがわかり、「侑美さん、この間〇〇スーパーにいたでしょ?」と言われることもしばしば。人間関係も、大体が知り合いの知り合いなので、いい噂も悪い噂も回るのは一瞬。
いつ、どこで、誰が、何をしているのかが手にとるようにわかるのが田舎の人間関係であり、悪いことはできないという恐怖を感じますが、もし一人で死んでも誰かが気づいてくれるという安心感もあります。

東京生活の1Kで一人暮らしをしていた時代に感じていた窮屈さに近いですが、それでも心理的な圧迫感は田舎の人間関係で日々積み上がっていきます。

デジタル生活と田舎の人間関係の窮屈さから脱したい!
そんな衝動を叶えるべく、私はワーケーションに出かけるのです。

ワーケーションとは、「ワーク(仕事)」と「バケーション(休暇)」を組み合わせた造語で、普段いる場所とは異なる場所で働きながら休暇を取ることを言います。ノートパソコンやスマホを利用して場所にとらわれずに仕事をするスタイルで、ここ数年でいっきに普及しました。

ワーケーションは現実的に手に入れたい「非現実」

田舎生活をしている私のワーケーション先は、それでもやっぱり田舎なのです(笑)。そのほとんどはドライブがてら車で行きます。
岐阜県は、7つの都道府県と隣接していることもあり、車さえあればどこにでも自由に行けます。

今までワーケーションでは、富山、金沢、新潟、静岡、白馬、八ヶ岳、氷見、京都、奈良などなど…。多種多様なところを訪れました。そもそも飛騨地方には、高山の街や奥飛騨温泉郷、白川郷があるので、飛騨域内でもたくさんワーケーションスポットがあります。

現地で美味しいものを食べたり、飲みに行ったり、飲み屋さんで地元の人と話したり、その土地でしか体験できないアクティビティをしたり。

長野県の白馬の街歩きは、とても気分転換になりました。家の建物は外国風で、まるでカナダの別荘地に来たかのような光景。北海道のニセコのように、スキー好きな海外の人たちが実際に住んでいるので、標識は英語だったり、散歩ですれ違うと皆「Hello、おはよう」と2ヶ国語で挨拶したりしていました。

ワーケーションの体験で印象的だったのは、富山県氷見市の喫茶店でオーナーのおばさまとの会話。「富山県と一口に言っても、氷見と富山ではアイデンティティが違うし、そもそも氷見の人は富山だという意識が薄い」という、廃藩置県によって無理矢理括られたことで歪んだアイデンティティの話を聞きました。

そういえば、飛騨地方も同じです。飛騨の人たちは岐阜県という意識が薄く、飛騨の人の言う「岐阜」は共通して岐阜市のことを指します。飛騨地方は戦国・江戸時代には「飛騨国」として存在し、金森家が統治していた場所。明治の廃藩置県の際に、富山や長野になる予定だったのが、最終的に意外や意外「岐阜県になった」というニュアンスの地域なのです。

そんな田舎の共通点を探しては、地元の人と楽しく話すワーケーションの醍醐味を楽しんでいます。

結局手に入れたいのは、飛騨の良いところに目を向けたい性善説的な「わたし」

ワーケーションは、私にとって窮屈さから逃れるための手段でしたが、旅先で地元の人と話をしていると、いつしか飛騨の良いところに目を向けていることに気づきました。

飛騨高山は豪雪地帯だけど、北陸のように風が吹かず、体感温度が思ったより寒くないところだったり、コンパクトな街で意外と便利であるところ。
あと、高山の古い街並みや古川の瀬戸川用水のように、昔と今がちょうどいい感じに洗練された状態で共存しているところは、私の感性を豊かにします。
これらは別の田舎を体験しないと、頭でわかっていても、体で理解できないことでした。

そしてそれは、私が潜在的に飛騨の良いところを探しているということ、飛騨が嫌になってワーケーションをしているのではなく、私が今いるところを肯定したくて避難しているんだということ。
もっと掘り下げると、私の飛騨への移住の選択がベストだったという「認定印」が自分自身に欲しくてワーケーションに出かけているんじゃないかとさえ感じるのです。

移住するにしても、ワーケーションをするにしても、結局のところ、今「わたし」がいる場所の肯定ができなければ、地方都市でも都市部でも生活できない、つまり生きることそのものに窮屈さを感じてしまうのではないか、そんな本質的な回答を見出しました。

あなたはなぜ移住したいと思いますか?
あなたはなぜワーケーションをしたいのでしょうか?

こうした哲学的な自問自答はわたしが真面目だから問うのではなく、自分を肯定するために、ともすれば「わたし」の豊かで幸せな生き方をデザインするために行うことだと思うのです。

今日も飛騨の青空の下で、コーヒーを飲みながら、自問自答を楽しむ私とみなさんにKippis(フィンランド語で”乾杯”)!

By 石原侑美(Elämäプロジェクト代表)

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