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寺子屋のリアル2 - 【識字率世界一:その9】


昨日の記事の続きです。

今回は寺子屋での『罰則』や『反省のプロセス』について纏めていきます。


海外にはなかった『言葉で戒める子育て』

日本を訪れた外国人が、日本人の子育てや教育について言及している文章は数多く残されています。

安土桃山時代、ルイス・フロイスというポルトガル人宣教師が日本にやってきた際に、日本人の子育てを見て「子どもにムチを使わずに言葉で戒める」ことに驚嘆したと言われています。

それもそのはずで、同時代のヨーロッパの学校教育は子どもへの接し方が対照的だったからです。フランスの思想家モンテーニュが『随想録』で記述していたヨーロッパの学校教育は以下のようなものでした。

学校はさながら子どもたちを入れる牢獄か監獄のような所で、いたずらも何もしてないのにムチで子どもを叩き、授業中に聞こえてくるのは子どもたちの悲鳴と先生の怒鳴り声だけだった。
そして、教師はムチを手にして生徒たちに向かい、やがて血にまみれたムチの折れ端が飛び散る、、、

当時のヨーロッパでは「学校にいく」ことは「ムチに打たれに行く」ようなものだったようで、17世紀のイギリスで51年間小学校の校長を務めたある教師が、生涯に生徒に加えた「むち打ち」は91万5千回、「監禁」は21万9千回、「棒突き」が13万6千回、そのほかの体罰を受けた者が6,700人もあったとの情報もあったくらいでした。


ムチのない教育で子どもたちは立派に育っていた

仮に上記のような教育スタイルが当時のヨーロッパのスタンダードだったのならば、そのような教育が日常的に行われていたヨーロッパから日本にやってきたフロイスが驚くのも無理はないでしょう。

そして、それ以上に驚いたのはムチのない教育でも子どもたちが立派に育っているという事実でした。

フロイスは、日本の子どもは「立ち居振る舞いが完全で、のびのびしていて愛敬がある」と述べました。また、その約300年後、明治6年に来日した日本語学者のバジル・ホール・チェンバレンも、日本の子どもは「善良で、礼儀正しく、のびのびしている」との記述を残しています。

また、ロシアの海軍士官であるゴローニンは、日本を「子育て上手の先進国」として賞賛し、「日本人は子どもに読み書きや法律・歴史・地理などを上手に教えるが、もっとも大切な点は、幼い頃から子どもに忍耐・質素・礼儀を極めて巧みに教えることである」と述べています。

この他「これほど子どもを可愛がり、いつも一緒にいる国民を見たことがない」「日本は子どもの天国」「日本の親は子どものために捧げ続けている」等、日本人の子育てに対する賞賛の声は枚挙にいとまがありませんでした。

捧満2


寺子屋における体罰

では、寺子屋教育における体罰はどのような状況だったのでしょうか。

手習稽古中は「無言・不食」がルールでしたが、そのルールを破るとまずは師匠から一喝をくらいます。一度目は矢の根で畳を二、三度叩いて大声で威嚇する程度だったと言われています。

再びおしゃべりが始まり、それが再三にわたると今度は『おくわえ』と呼ばれる『口に筆をくわえる罰』が与えられます。これにより子どもはおしゃべりができなくなります。

それでも言うことを聞かないと厳罰が与えられましたそうで、大勢いる部屋の中央に机を置き、本人をその上に正座させ、口に筆をくわえさせ、左手に水を一杯に入れた湯呑み、右手に火のついた線香一本を持たせられるというものが多かったようで、師匠の許しがあるまでは身動きしてはならないというものでした。

捧満1

本人が深く反省したり、同情した寺子たちが、師匠に許しを願ったりといった時点でようやく許されたといわれています。

この厳罰は「捧満(ほうまん)」と呼ばれる寺子屋特有の体罰でした。線香は時間を計るためのもので、一本燃え尽きる4、50分間は茶碗の水を一滴もこぼさずに正座または直立を続けなくてはならなかったそうです。


「あやまり役」という反省・救済のメソッド

寺子にとって「捧満」以上に辛い罰は「破門」でした。

破門されると入門時に親から用意してもらった机と文庫を持たせて「二度と来るな」と言って自宅に返されました。手習師匠は大抵は本気ではなく、親はそのことをよく承知していて、子どもを連れて手習師匠の家に謝りにいきました。

このように子どもが悪さをした時に、親だけでなく、手習師匠の妻や近所の老人などが一緒に謝罪する『あやまり役』という慣習がありました。時には手習師匠があらかじめ隣家の老婆などに「今日は子どもたちを叱るので、適当な頃合いにあやまり役に来てください」と頼む場合もあったそうでこれがいかに一般的に認知されていた慣習だったかが伺えます。

いずれにしても、こうしたプロセスが子どもを本当の反省に繋げることができる、という当時の人たちの知恵であり、方法論として確立していたという証拠だと考えて良さそうです。

この謝罪法は寺子屋にとどまらず広く社会一般で行われていた慣行だったと言われています。

例えば、『親子茶呑咄(おやこちゃのみばなし)』という書には、酒・色・博奕の三悪をやめられない息子は後継にしてはならず勘当しろ、と述べた一節があります。

一方で、勘当されても親類の詫びによって勘当を解くことが書かれており、他の箇所にも、勘当を言い渡されても、親類のあやまり役によって何度も許され、時には一定期間親類などに預け置くなど、反省に導くプロセスやチャンスが何重にも用意されていたことが伺えます。

このような反省の導くプロセスに仲介者が登場することは珍しくなく、特にこのような時に『仮親』という制度が活かされたのだと推察されています。このように仲介者が関わることは家庭や地域の中に問題解決能力が潜在していたことを意味するものであり、人々の精神的なセーフティーネットの役割を果たしていたようです。


まとめ

今回は教育における罰則にフォーカスしました。

やはり江戸時代は『言葉で諭して正しい方向に導く』というのが教育の王道だったようで、それは同時に諭す側、親の思考を表現するレベルが高かったことを意味しているのかなと感じました。

現代でもよく問題として取り上げられる体罰は明治維新後の西洋教育が輸入された際にイメージ付けられた『教育』であるというのは色々な書籍でも目にしますが、西洋における軍隊統率の概念が根底にあるようですね。

日本で行われていた元々の教育方法は、言葉で諭すというもので、海外の方が書き残しているように、それで子どもたちがしっかりと育つことが実証として出ている点を見ても、もうそろそろ教育の概念自体を見直す時期に来ているのかなと思ったりします。

また、なぜ『あやまり役』が子どもの反省を促すのに効果的なのか、非常に興味が湧きました。自分の身近な人や大切な人が自分のしたことで謝っている姿が、羞恥心なのか申し訳なさなのかに作用してより深い反省に繋がるのか、またそれは子どもだけでなく大人でも効果があるのか、知りたいところです。

この『あやまり役』をベースとしたセーフティーネットはより寛容な社会を形成するヒントが含まれているような気がします。

今日はこの辺で。

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