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第11話 異邦人の食卓

 日本から来た私と中国から来た友人は、姉妹と間違われるくらいに似ていたのか、それともあの国の人達にはアジア人の顔の違いが分からなかったのか、とにかく一緒に歩いていると、道行く人から「なんでこの子たちは自分たちの言葉で話さないんだろう」って不思議そうな顔をされたものだった。
 勉強中の第三言語では足りないところがあっても、漢字を書けばそれなりに分かり合うことができたのがよかった。私たちはどちらも英語が得意じゃなかったから、第三言語で通じないところがあったときに、これなら分かるでしょっていう顔で英語に切り替えられることにウンザリしてたんだよね。それに漢字の四角さが恋しかった。私なんかは草書でつらつら書くひらがなを持ってる日本人だから、まだマシだったのかも知れないけれど、正真正銘の漢字の国から来たあの子は、ひょろひょろした表音文字のアルファベットばっかりに取り巻かれていることに、かなり疲れがあるみたいだった。私もたまに眩暈が起こりそうになったとき、街角に華僑の一家がやってるチャイニーズレストランの赤い提灯が見えると、なんだかホッとしたものだった。だいたい金色で、上下を逆さまにした「福」の字が書いてあってね。友人が教えてくれたことには、幸福が到るっていうお呪いなんだって。そういう習慣は日本にはないなぁって言ったら、驚いてた。お互いにお互いの国のことをあまり知らないから、そういう小さな違いを見つけるのが楽しかったな。
 習慣の違いは、人間関係の築き方にもあったって気が付いたのは、一般的な文化にまつわることから、個人的な思い出に話が移るようになってからだった。このグローバリゼーションの時代になっても、まだ世界中に中華街が残っていて、それどころかその数が増えていっていることからも分かるように、中国人の人達って結束力がすごく強いんだって。その点、今の日本人って、ちょっとローンウルフな傾向があるよね。向こうで知り合った日本人仲間とは、あんまり上手くいかないことが多くて、ちょっと悩んだことがあったから、その辺で苦労した経験から生まれた、私の個人的な偏見かも知れないけど。
 とにかく私はすごく独りぼっちだなって感じてたの。その時にあの子が、私のことを同郷でしょって言って、仲間に入れてくれたんだ。同じ黒い髪、同じ黒い瞳、墨と筆から生まれた漢字を使う、お茶を飲んで生きていく仲間でしょって。
 正直なところね、中華街のこと、それまでは少し嫌だなって思ってたんだ。その土地の文化や景観を侵食する植民行為じゃんって。今ではすごく羨ましい。助け合うことを当然だって思っている仲間が、世界中にいるってすごいことだと思うから。
 私がそう言うと、あの子は少し難しい顔をして「私たちは家が借りにくいから」って言ってた。あの辺りには、平日の夕食なんかはパンを中心に、ハムやチーズ、サラダなんかの買い置きを冷蔵庫から出しただけの、冷たい食事ですませる習慣があったんだけど、日本人としては夜には温かいものを食べたいと思うでしょ。それは中国人もいっしょで、ついつい炒め物なんかをしちゃうんだけど、自分たちの好みの食事を用意するとなると、香辛料の匂いがかなり出ちゃう。苦情がたくさん来ると、せっかく築いた生活基盤を放棄して出て行かなきゃいけなくなるから、できるだけ寄り集まって、迷惑をかける人を減らすんだって。中華は火力が命だからコンロもそれなりのものを選びたいし、お台所には煙の香りが染み込んじゃうし、そうなると次の住人も同じ中国人の方が揉めごとが少なくて安心だしって、少しずつ中華街になっちゃうんだよねって聞いて、なんだか笑っちゃった。笑いごとじゃないんだけど、でも笑うしかないよ。お味噌汁は匂いが少ないから、日本人はあんまり嫌われないでしょって言われちゃって。どうなんだろう、お醤油ってけっこう独特の匂いがあると思うんだけど。
 私はあんまり料理をしないから、冷たい食事は便利だった。手軽で美味しくて、たぶん体質にも合ってたんじゃないかな。でも、たまに心が荒むのは感じてた。どんなに美味しいチーズが手に入っても、地元さんのワインで胃が温まっても、ひとりぼっちの異邦人には遣る瀬なくなる夜が来る。石の壁があまりにも冷たくて、ひとりで作る夕食があまりにも一人前だから。
 お茶が飲みたいねって言ったら、あの子は飲みにおいでって誘ってくれた。私は内陸の街、あの子は海辺の街に住んでいたから、交通の便のいい出先でしか会えない私たちには、お互いの下宿先を訪ねる機会なんてないのは分かってたんだけど、それでも嬉しかった。たぶん電車も通ってない海辺の街まで頑張って訪ねて行けば、あの子とその仲間たちは私を歓迎してくれた。日本で飲むような緑のお茶はないけれど、故郷の黒いお茶を淹れてあげるって言ってくれたのが、私には心から嬉しかったの。

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