見出し画像

コンプライアンス
コンプライアンスの話題が盛んになっているのだろうか、国や社会には様々な規制やルールなどがあり、その示された規範によって立ち振る舞っていれば、行動をして入れば、生きていれば何のお咎めもなく、安泰に過ごせるものなのでしょうか。

このルールを破った途端に何かしらの責めを負い、人や周りから見られる目が一変してしまうのである。赤信号で通行してはいけない。横断歩道以外で平気で渡ってはいけない。とっても美人で可愛らしいのに、駅前の有料駐輪場ではなく、手前のスーパーの前に平気で無賃で放置し駅に向かう女性とか。知り合いで無くても「なんだコイツ」と思えるのに、たまたま知り合いの顔を見届けると、一転して減滅してしまうのはなぜなんだろうか。

コンプライアンスとは法令遵守のことを指すようだが、狭義の意味合いだけでなく社会規範や模範となる行動、会社に勤めているなら、企業としてのコンプライアンスも定めていることでしょう。自分の住む行政地域ごとにも策定されているでしょうし、近所で構成されている回覧板のメンバーにもなっている。最小単位では家族かも知れないし、親子や兄弟かもしれない。

ジャ〇ーズ問題でも、こんなに騒がれているのは、海外の報道が無ければとか。。。
統一〇会解散請求等も、一国の元首が殺害を受けたとか、過去には〇ウム真理教が、サリン事件等を起こしたとか、もっと遡れば大手広告代理店の〇通社員の自殺問題で、過労等や残業を受けて、働き方改革やワークライフバランスの在り方などが設定されている。

つまり、大きな事故や事件が生じない限りは動かないが政治である。警察では無いが、ストーカー行為だってそうかも知れない。事件が起きるまで未然に防ぐことが騒がれて、ようやく法律ができたかも知れないが、お役所仕事と俗に言われる日本のお家芸かも知れない。

海外などで仕事をされたり観光以外の研修などで訪問された方は、よくわかるかも知れないが国家に関わること以外では、その場の当事者(担当者や責任者)の個人裁量によって判断されることが大半であって、日本とは大違いである。ストレートにモノを言って来る。アメリカだって最初は律儀だが、慣れて来たとしても、遠回しやクドクドの表現は見られるけど、不快感は無い。

いくら大儀を掲げていても、どんなに優れたミッションや理念を掲げていても、その行動規範が遵守されるどころか「面倒だし」、「そもそも契約外だとか」、「私の仕事でも無いし」、など、自分の頭で考え、判断して、PDCAを回す行為や行動を絶対に起こさない方が賢明であるという行為を正当化している。あくまでも個人的ではあるが、このような行為は私は国民として不得手や不得意とは思えない、あくまでも自分を特別に保守している人物だけである。縦割り業務以外にも横割り業務を推進したり、仕事の幅や許容範囲を越えて仕事をしている行政関連の人を多く見て来ている。

仕事柄、行政関係の仕事など多く手がけてはいるが、もう慣れてしまったかも知れないが、たまに世代が異なる若い人種と同じ空気を感じる人達がいる。色んなことを勉強していて、改善に乗り出そうと心意気が高い人がいる。ところが大半の人が、出世しないのである。気付いたら飛ばされていたりするのだ。。。杓子定規に当てはまった事以外の仕事をしない方が、出世するのであり、評価が高いのである。

コンプライアンスを否定しているのではなく、むしろ推奨しているわけだが、強調しているわけではない。秩序やルールを守るのは当たり前だと思われるし、先のコラムにも記しているが(公衆衛生)、わざわざ強調しなくても「道徳」があるのである。この道徳の教育が衰退して来ているのか、道徳の意味がわかっていないのか、、、 ちまたでは中小零細企業である「職人」の領域に生きる継続的な仕事が無くなろうとしている。いわゆる後継者問題の筆頭格と言っても良いだろうか。一次産業(農家や漁業等)も苦労されてると思われるが、「職人の領域」というのは熟練の「勘」どころというか、AIや正確無比のコンピューターで弾き出すことができない領域があると言われている。いわゆる「味」である。食することに必要な「味」というものがあるが、「味」というのは食という味覚だけではない。デザインにも味があり、容姿にも味がある、いわゆる「粋」という領域で製品に宿っているのである。

なんでもお金で買うことのできる製品には「味」が無い。「粋」である領域で過ごしたことの無い人には、何のことを言っているのかわからないだろうが、デジタルとアナログで簡単にわけることではないのである。

人はロボットではなく、あらゆる感情を持っているのである。情けは人の為ならずと言われても、確かな温情があり人情があり、曖昧な部分であったり、人と会話するにしてもメールではなく人同士が目を見て話し合う「対話」がある。そこには暗黙知というマナーやエチケットもあれば、くそみそな失敗もある。その中で、仁義や人情があり「道理」を重んじる、「絆」が生まれるのである。

つまずいても良いじゃありませんか、人は孤独で生きることができず必ず誰かや誰かのために、一人で生きているわけじゃありませんね。利他の心を持ち合わせているからこそ、酸いも甘いも噛み分け、楽しんでいること自体が生きている証拠でしょ。しんどいことも生きている証拠でしょ。

杓子定規がダメとは言いませんが、少なくとも私や私の周りでは楽しく生きている人達に囲まれたいものです。出世した方がお金にもこまらないでしょうし、ポジションも高くなるでしょうし、プライドも付いて来るでしょう。それはそれで頑張って下さい。

時代の相応した生き方や抗って生きていることを否定もしません。セクハラやパワハラの真意というか、自分の行動範囲の中では良くわかりませんが、世代に関係なくコンプライアンスという言葉を選ぶよりも、自分の中で「矜持」を持って生きることは大切だと思います。

大正時代に生まれた思想で「全人教育」というのものがある。簡潔に言い換えれば全人(全ての人間として)の「教育理想」である。長い歴史の中で、宗教問題で戦争にまで発展してしまったことは残念で仕方が無いことだが、報道にも規制を設けた方が良いのではと思う。報道は自由と言ってしまえば、それまでだが「限度」があるように思える。場面によっては、未来を担う子供達へ見せる、教える教育では無いように思えるが。。。。