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1. Trattoria 29 /29 in bottiglia シェフ・竹内悠介さん(1/3)  “料理とイタリア”  現地へ渡った料理人のちいさな20の物語


  東京は西荻窪にあった[Trattoria29]。駅から少し住宅街に入ると現れるそのお店は、店内の灯りとお客さんの笑顔が、ガラス張りの外観から外へと醸し出される、そんな暖かな空間だった。10テーブルほどの小さな店内はいつも満席で、美味しいものを食べる喜びと、そのひと皿を囲む楽しそうな会話で溢れていた。
 イタリアから帰ってきたあと、たった1ヶ月半という短い期間だったにもかかわらず、私の心の中はすっかりイタリアに夢中になっていた。日本でイタリアを探す私に、現地の空気を感じさせてくれたのが[Trattoria29]。とても好きなお店だった。
 テーブルに運ばれたお皿をワクワク眺めながら、ひと口いただく。力強い美味しさが心に響く、幸福な時間だった。

 西荻窪に“あった”と記したのには理由がある。そう、今はもうそこにはないからである。[Trattoria29]としての営業は2020年3月に一度閉じ、現在は群馬県川場村での新たな店のオープンに向け準備を進めている。

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 シェフの竹内悠介さんは、毎月29日を「ニクの日」として、肉好きのためのディナーイベントを開催するなど、独特のスタイルを提案してきた。料理の美味しさはもちろん、竹内さんが生み出したあの空間に惹かれ、通い続けたという人も多いだろう。そんな彼はなぜ、そのスタイルに辿り着いたのだろうか? そもそも、どうしてイタリア料理店を営むことになったのだろう。


食べることもつくることも楽しい、少年時代

 竹内さんが料理を好きだと気づいたのは、中学生の頃だった。生まれは群馬県利根郡川場村。アルペンスキー部に入っていた育ち盛りの少年は、練習が終わってお腹がすけば、お菓子を食べる代わりに自分で好きなものををつくっていたという。もちろん夜には、また家族で食卓を囲む。食べることもつくることも楽しい、そう感じる少年時代だった。そんな竹内さんに父親はある日、「高校に行かないで、寿司職人になったらよいんじゃないか?」と言った。
「でも母には、最低でも高校は出てほしいと言われて(笑)、高校へ進学することに。卒業後の進路を考える時も、料理人になりたいかどうかまだはっきりとはわからなかったですね。さらに親父からは、国立の大学以外は学費を出さないと言われていました」
 そんな竹内さんが進路の候補にしたのが、調理師学校とIT系専門学校の二択だった。当時はインターネットが普及してきた時代で、竹内さんも漏れなくその世界に興味を持ったのだという。さて、学費を得る手段を何か考えなければならない。

 見つけたのが、新聞奨学生という方法だった。新聞を配達しながら奨学金をもらう。もちろん返済は不要だ。しかし、一つだけ問題があった。
「学費を自分で工面するにはその方法しかないと思ったのですが、調理師学校に行くと夕方まで実習があって、夕刊を配れないんです。結果、IT系の専門学校に入学しました。でも2年生になって就職活動を始めてみると、スーツを来て会社に足を運ぶ自分に違和感を感じたんですね」
 竹内さんは改めて調理師学校を目指し、料理人の道への第一歩を、踏み込むこととなった。
「学費を工面するために今度は[銀座ライオン]の学生社員になって社員寮に住み、働きながら学校へ通いました。様々なジャンルの料理を習うわけですが、自分がやりたいことは和食なのか、フレンチなのか、イタリアンなのか。はたまた中華料理なのか、全然わからなくて。すると、[銀座ライオン]の先輩でイタリア料理店に入った方がいることを知って、就職先を紹介してもらうことになりました」

 導かれるようにして勤めることになった、東京・広尾のイタリア料理店[アッピア]。生業として、どの料理の道に進むべきか悩んでいた竹内さんだが、店で働くうちに、イタリア料理のシンプルな調理法が、自分に合っていると感じるようになった。時の流れは早く、あっという間に5年という歳月が経っていく。そんな時に出会ったある先輩が、竹内さんをイタリアへと導いたそうだ。
「イタリアで3年修行した先輩が店に加わったのですが、他の先輩がつくる料理とは明らかに違ったんですね。フィレンツェの料理でRivolita(リヴォリータ)というパンと野菜と豆をくたくたに煮て食べる、パン粥のような料理があるのですが、先輩がつくったリヴォリータは最高に美味しくって。これがイタリア帰りの料理なのか……と。そこから自分もイタリアに行って勉強したいと思うようになりました」
 2006年の夏、竹内さんは初めてのイタリアへと旅立った。

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アルノ川沿いから見るフィレンツェの景色


期限付きでの、イタリア生活

 場所は、リヴォリータの印象が残る、トスカーナ州のフィレンツェに。世界中から観光客が大勢訪れる、ちいさな街だ。街の中心である歴史地区にはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂やウフィツィ美術館、ポンテ・ヴェッキオやヴェッキオ宮殿、そして地区の端にはボーボリ庭園やミケランジェロ広場……と、イタリアを知るための訪れるべき場所は多く、華やかな芸術の都とも呼ばれる。石造りの古い道や建物に囲まれて日々を過せば、フィレンツェの歴史の一部に溶け込みつつある自分に、不思議な輝かしい感覚を覚える。けれど、艶やかな魅力を持つ受け入れ上手なこの街は、余所者をその奥へとはなかなか入り込ませてくれない。ともに過ごしながらも時にどこか遠くに相手を感じさせる、そんな独特な街だ。


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サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の近く、Piazza della Repubblica(レプブリッカ広場)


 特に仕事に当てがあるわけではなく、まずは半年という期限付きでのイタリアでの生活が始まった。
「半年過ごしてから、その先もイタリアで生活を続けるかどうか考えようと計画していました。初めの頃は、まだまだイタリア語が話せず、語学学校には通っていましたが、仕事探しも苦労しましたね。そんな時にたまたま日本人のシェフに出会って。[Vinolio(ヴィノーリオ)]というレストランでシェフをやっている方だったんです。調理補助を探しているということで、働かせてもらうことになりました」
 待ちに待った、イタリアの厨房での仕事が始まった。Tボーンステーキに、鳥レバーのクロスティーニ、そして猪のラグーのパスタやリボリータ……。もちろん東京での修行時代にも食べたことや学んだことがあった料理だが、全てが新鮮だった。トラディショナルな料理のおもしろさに、ますます惹かれるようになった。

 休日や時間ができればバスや電車に乗って、各地のRistoranteへ。イタリアの名のあるグルメガイド「Gambero Rosso(ガンベロ・ロッソ)」を片手に、時刻表を調べ足を運んだ。ここだと惹かれるお店があれば、「働かせてもらえないか」と持ち歩いていた履歴書をシェフに渡した。もちろんそのタイミングで人を募集しているということはそうそうなく、一度で決まることはなかった。好きなお店へは何度も足を運び、その都度人を募集しているか尋ねる。そして帰国する直前にその努力は叶った。ボローニャの山奥にある[Trattoria da Amerigo(トラットリア・ダ・アメーリゴ)]というお店が、半年後に働かせてくれるという。予定していた半年の滞在を終えて帰国後、次の滞在に向けて準備が始まった。



ー 1. Trattoria 29 /29 in bottiglia シェフ・竹内悠介さん(2/3) へ続く


<Information>竹内悠介さんの料理・お店
Trattoria 29 29 in bottiglia
「29 in bottiglia」ONLINE SHOP


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