読書記録:重力ピエロ (新潮文庫) 著 伊坂 幸太郎
【罪の結実の元に産まれた自分だから、この恥を清算しよう】
強姦された母から産まれた弟を持つ兄が放火事件と謎の落書きの関連性を調べる物語。
「山椒魚は悲しんだ」「メロスは激怒した」「春が、二階から落ちてきた」
これらの有名な文学作品のモノローグは、読者の人々に鮮烈なまでに印象を心に残す。
シンプル故にパワーワードであり、人はその心に流れる心情をありありと想起出来る。
そして、僅かな違和感もある。
何故、そんな心境や状況に至ったのか?
そうやって興味を惹かれて、物語に耽溺する中で、作者が伝えたかったメッセージを理解していく。
この物語では、法に於ける善と悪、罪で繋がった加害者と被害者の赤裸々な感情が現される。
この作品を読んで真っ先に連想したのは。
凶悪犯罪を犯した犯罪者を死刑にする制度に反対する意見に対して。
「遺族の身になってみろ」や、「被害者の前でもそんな事が言えるのか?」といった反論を目にするたびに、自分はどこかで違和感を感じていた事。
そもそも、当事者以外にその苦しみが分かるはずもなければ。
赤の他人が、渦中にいる人に対して擁護する為に吐いた言葉だとしても、率直に失礼な行為であり、どこか気持ち悪く感じてしまう。
本当に被害者の事を思うのならば、関係のない赤の他人は口を噤むべきである。
そして、深刻な話題ほど難しく捉えるのではなく、敢えて陽気にシンプルに伝える事で。
他者の心に負担をかけない配慮が大切である。
起きた問題に対して、小難しく議論する世間に対する違和感をこの作品は的確に射抜いてくれる。
昨今、世間は起こった犯罪には理由を求める傾向があるが、本来は事件を起こした事実のみに焦点を当てるべきだと思う。
被害者にやった事と同じ事を、加害者はされたらいい。
言葉を尽くしても改心されない悪には、同じ痛みを与えるしかない。
そうすれば、被害者の負った痛みや心の傷を理解出来るはず。
人が犯した業と呼ぶべき遺伝子に刻み込まれた性。
その罪によって産まれた春を、托卵の形で育てた両親。
兄である泉水も複雑な心境だった。
罪の子と揶揄された春だったが、ガンジーを崇拝して、性的なものを嫌悪し、犬をこよなく愛する優しい青年だった。
そんな弟を見て、泉水は血の繋がりだけが家族の形ではないと信じていた。
そして、春は己の恥の元凶といえる、実の父親である葛城との対峙していく。
強姦して春を作った父親である葛城を、この手で粛清する事。
春は、それを実際に行動を移す矛盾に十年もの間、苦しみながら、考え抜いた末に編み出した結論だった。
春はあくまでも、その深刻な復讐を成し遂げる為に、敢えて陽気なピエロのように振る舞って、自らのアイディンティティを縛る重い重力を忘れようと努めた。
春にとって重力とは、他者からの眼である。
レイプ犯の子供という世間からの好奇な眼に、抗う為の精一杯のなけなしの態度であるし。
自分の中での重荷を他人に背負わせるのは、彼のポリシーに反した。
大きな毒を殺す為に、別の悪を成す事こそが彼にとっての正義。
果たす復讐は、極めて気楽にシンプルに。
しかし、春は育て親に似て、嘘を貫き通すのが下手であった。
そして、その復讐の大義名分を得る為に、連続放火事件を起こした。
泉水は、本業泥棒の副業探偵の黒澤や春のストーカーである夏子に協力してもらって一連の事件の関係性を調べていく。
犯行現場とグラフィティアートの頭文字が遺伝子の塩基配列、AとT、GとCに則っている法則性に気が付く。
全ての謎を解き明かした泉水は、その眼を伏せたくなる真実を知ってしまう。
そして、過去の出来事から察してしまう。
春は泉水と対話している時に、ずっとヒントを与え続けていた事。
泉水は弟の行動を、自分なりに考察した。
この犯行に気付いて止めて欲しかったのかもしれないし。
一緒に戦って欲しかったのかもしれない。
だが、これらの理由はあくまで自分の類推に過ぎない。
本当の理由が知りたくて、弟に動機を問いた際に、春は理由をこう語った。
葛城に強姦という忌むべき犯罪を犯した悪を、心から反省させたかった。
刑務所から出所しても、葛城には罪悪感というものが微塵もなく、名前を変えて同じ過ちを、懲りずに繰り返そうとしている。
被害者が苦しんでいようが、自分の快楽を優先にする自分本位で身勝手な生き方を、厚顔無恥に続けている。
それが、春には到底、許せなかった。
火には浄化作用があるからこそ、春は放火を選んだ。
その放火には意味があって、葛城にだけ通じる、あるメッセージが隠されていた。
それは、強姦魔の犯行現場に火をつける事。
「お前のやっている事は、俺がしっかり見ているぞ」
言外に忠告するメッセージを葛城に放ち続けたが、警告とも言える暗示は意味を成さなかった。
葛城はずる賢く警察の監視の目を掻い潜って、罪を重ね続ける。
法律が正しく葛城を裁かないのならば、自らの手を汚してでも、葛城に鉄槌を下す。
癌で逝去する前に父親が病室で語ってくれた。
「人生は川のようなものだからこそ、向かっていく方向に正解などないのなら、自分がしたいようにすれば良い」
その励ましの言葉が、お守りのように春の復讐の背中を押してくれた。
世界からすれば間違った行いだとしても、お前は正しいと肯定してくれる人が、春の傍にはいてくれた。
社会はその行いを許さないとしても、家族は許してくれる。
春は不安を抱えながらも、最後まで計画通りに復讐をやり遂げられた。
ようやく、自らの恥と呼べる性と罪という呪縛から解き放たれた。
全てを終えた春の心は重力を忘れて、空を自由に飛び回るピエロのように、軽やかで清々しい達成感で満ち溢れていた。
今まで大切に育ててくれた、逝去した父親の火葬の煙が、大空へと舞い上がっていく。
春は屋根に登って、自らが選んだ人生を灰となった父親に向かって叫ぶ。
遺伝子や生い立ちなど関係がない。
どうにもならないものに操られて生きるなんて、とても不愉快だ。
そんなものに自分が歩いていく人生を決められてたまるかと。
実際に血の繋がりがなくとも、春を心の底から愛してくれた両親や兄がいたからこそ。
自分達は最強の家族なのだと。
家族は春の行いを称賛してくれたから。
春はその絆と行為を、胸を張って誇る事が出来た。
そして冒頭と巻末の「春が、二階から落ちてきた」でその幕を閉じる。
葛城を殺して、警察に自首するという選択肢は春は取らなかった。
その代わりに己が犯した罪を、自らの生命を投げ出す事で、ちゃんと清算した。
辛くて苦しい問題を、大切な人間の負担にならないように、最期まで努め終えた春は本当に強くて優しい人間だった。
復讐を遂げて重力から解き放たれた春は、次こそは、何のしがらみのない世界へと産まれ変わるのだろう。
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