自著『ポストヒューマン宣言:SFの中の新しい人間』を140文字×10で紹介


自分のTweetまとめです(一部修正あり)

自分にとってSFはエイリアンについて考えるジャンルで、だから『ポストヒューマン宣言』の第一章に、映画『エイリアン』論を持ってきた。ポストヒューマンの本でなぜエイリアンかというと、人間ではないものを徹底的に描いた映画が人間を超えた存在を生んだから。異性生命体だけではなくアンドロイドにも注目。

『ユリイカ』岩明均特集に寄せた『寄生獣』論を、当の『ユリイカ』を読んてから、岩明均『七夕の国』論をくっつけて、人間とエイリアンが融解したポストヒューマンとしたのが第二章。『七夕の国』はかなり好きだが『寄生獣』のインパクトに霞みがちかもしれない。それと『寄生獣』の超時代性すごい。

『三田文學』の世界SF特集に「日本・SF・ポストヒューマン」として大友克洋『AKIRA』宮崎駿『風の谷のナウシカ』(ともに漫画)を論じた。ここからヒューマンとポストヒューマン、あるいはポストヒューマン同士の闘争を〈ポストヒューマンのパラドックス〉という表象(不)可能性から論じたのが三章。

第四章はグレッグ・イーガン「しあわせの理由」と「祈りの海」をテクストに精神が身体をコントロールできる時にポストヒューマンは誕生するのかを考える。テクノロジーで身体を制御しようと決める自由意志はどこからわいてくるのか。作品中のポストヒューマンたちが悩み葛藤する様子はヒューマン的だ。

第五章は映画《マトリックス》3部作をティプトリー「接続された女」とギブスン「冬のマーケット」の脱身体化をたどって考える。《マトリックス》の脱・脱身体化の物語を、仮想現実でなぜカンフーアクションをやる必要があるのか、現実世界はどうして生物的な意匠なのかという疑問とあわせて考察する。

AI映画『チャッピー』『トランセンデンス』『her/世界でひとつの彼女』を取り上げて、人工的に作られた知能が人間を超えるポストヒューマンになる可能性を検討する。見えてくるのは人間vs AIではなく人間とAIがフラットに融合する可能性だ。支配する・されるという図式からの脱却を目指す第六章。

サイボーグ映画といえば《ターミネーター》だが、実はターミネーターはAI搭載のロボット。マシーンをサイボーグとして人間化して見てしまう理由を、平井和正「サイボーグ・ブルース」とマキャフリー「歌う船」から得た〈サイボーグ化のまなざし〉概念で分析する。人間vsロボットの図式に挑む第七章。

第八章。フェミニストSF作家として比べられるアーシュラ・K・ルグィンとジェイムズ・ティプトリー・ジュニア。それぞれの情報の伝え方に注目し2人の身体性を論じた。情報は非物質的で光速を超えるル・グィン、情報も物体でメッセージパイプを使うティプトリー。情報の扱い方は両者の思想の反映である。

松尾由美、田中兆子、村田基、小野美由紀、松田青子、そして新井素子。産む性としての女性(性)、身体へのテクノロジーの介入を描く作家たち。男性(的なもの)の不在を欠如とはしない主に女性たちが運営する共同体をフェミニスト・ユートピアと定義し、その(不)可能性を探ったのが第九章。

メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』はSFの起源の一つとされるので、SF評論ではよく取り上げられる。人間の手を離れてしまったテクノロジーである「それ」(名前のない怪物)を、伊藤計劃の「継ぎ接ぎ」の人間像と接続したのがの第十章。継ぎ接ぎは近代科学とテクノロジーの歴史を知る上でも重要。

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