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ミュージカル「ONCE UPON A TIME IN AMERICA」が示す“じゃない方”の生き様

漠然と「何者かになりたい」という焦燥感に襲われることがある。
それも、かなり強めの焦燥感に。
これは20代に特有の病なのか、それとも、この先更に強まっていく類のものなのか・・・?

先日、Twitterで「バブル世代の購買欲が今の若者に理解されないように、今の若者の承認欲求もいずれまったく理解されなくなるのでは?」といった内容の投稿を見た。
承認欲求なんて人類に普遍的に備わる願望だと思っていたが、言われてみれば、SNSを通して有名人でなくても気軽に自己表現できてしまう時代を生きる私たちは、自己をコンテンツ化して何者かになろうとする志向が他の時代に比べて極端に強いのかも知れない。

仮にそうだとすれば、「ONCE UPON A TIME IN AMERICA(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ)」が今リバイバルされたことには大きな意味がある。
宝塚歌劇の2020年正月公演「ONCE UPON A TIME IN AMERICA」はまさにそんな“何者かになろうと必死に努力する人間”の群像劇だから。
ただし、今を生きる私たちがスマホひとつでのし上がれるのに対し、彼らは性を売り物にしたり、銃を手に取ったりするしかなかった訳だが・・・。

物語の主役はマンハッタンのローワー・イーストサイドに住むユダヤ系移民の子供達。
先人たちによって生きるための産業が開拓され尽くされた新大陸へ、最後に移住したユダヤ系移民がアメリカで上り詰める方法は2つしかない。

ショービジネスからの正面突破、
もしくはマフィアという裏街道

真彩演じるヒロイン・デボラは歌唱力を武器にショービジネスの世界から、望海演じるヌードルスと彩風演じる親友マックスは知力と勇気を武器にマフィアの世界から、ともにアメリカの頂点を目指すという筋書きだ。

見知らぬ土地で知略を働かせて信頼を勝ち取り、リーダーとして裏社会を席巻。
仲間の裏切りに遭いながらも命からがら生き延び、ついに表舞台での成功者へと上り詰め、さらには幼少期より想いを募らせた女性をも手に入れる。
しかし、己の身の破滅を悟ると、裏切り者を許し、最期には自ら命を経つ。

クラクラするほど華々しい男の成功と転落の人生だが、実は、これは主人公ではなく親友マックス視点での物語だ。

そして、主役のヌードルスから見た物語はこうである。

子供の頃、逆上して人を殺し7年間服役。シャバに戻ったら初恋の人はハリウッドデビュー目前のスターになっていた。自分ではなく映画プロデューサーを恋人に選んだ彼女を呪いながらも仲間と共に悪事を働いていたが、エスカレートした親友を止めるべく警察に密告。
自分が意識を失っていいるうちに仲間たちは死んでしまった。
阿片漬けになり25年が経ったのち、初恋の相手、さらには実は生きていた親友に再会する。

ハリウッドスターになったデボラ、財団の長官になったマックスに比べると、何者にもなれなかったヌードルスは今風に言えば”じゃない方芸人”だ。

戦隊ヒーローでいうならマックスがレッドで、ヌードルスはブルー、下手するとグリーン。
真面目に聖書で例えるならマックスがイエスでヌードルスはユダだ。

だが、もしかすると「何者かになりたい」と強く願う私たち、そして薄々「何者にもなれなかった」とも感じている私たちが本当に見たいものは、何者にも成り損ねた“じゃない方”なりのカッコいい生き様なのかもしれない。

何者かになった人のコンテンツは娯楽でなくてもそこら中に転がっている。
それこそ、noteの中に五万と。

一方で、何者にもなれなかった人間の生き様を赤裸々に語ったナマのコンテンツはほとんど世に出ていない。

その点、ヌードルスは“じゃない方”だし、最後までダメなやつだけど、それでいて何故だかカッコいい。

そもそも、どうしてヌードルスは“じゃない方”にしかなれなかったのか。

それは一重に優しすぎたからだ。

子供の頃人を殺めたのも、自分の仲間が殺されたからだ。

デボラに懇願されてもマフィアを足抜けできなかったのも、自分を待ってくれた仲間の期待に応えるためだ。

デボラを力でねじ伏せなかったのも、デボラ以上に繊細で傷つきやすかったからだ。

仲間を警察に売ったのも、仲間の罪を軽くするためだ。

友人の最期の頼みを聞き入れられなかったのも、
一重に彼が優しすぎたからだ。

優しさは弱さなのかもしれない。
優しさゆえに貧乏くじを引き続けた男の人生。

だけど結局人間とはそういうものなんじゃないか。
複数の選択肢が提示された時、なるべく優しくありたいと思うのは世の常なのではないか。
たとえ、その優しさを積み重ねるたびに、成功から遠のいたとしても。

“優しい方を選ぶ”という行動に、私たちは何者にもなれなかった人間なりのカッコいい生き様を見出し、ほんの少し救われる。

“じゃない方”なりにかっこいい
それが誰もが何者かになり得る時代に求められる、新しいヒーロー像なのかもしれない。

“じゃない方”をカッコよく演じるという難役を完璧にものにし、その葛藤で舞台を支配した望海風斗
ともすれば陰鬱にも成りかねない文学性の高い作品に程よいエンタメ性を織り込み、正月公演にふさわしい華やかなミュージカルに仕立て上げた小池修一郎先生の手腕に
心からの賛美を。

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