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井の頭公園で叫んでいた新人営業マンが、社長になって2兆円市場にチャレンジするまでの話

23才、社会人1年目。

僕は10年上の上司に見守られながら、井の頭公園のステージの上で叫んでいました。

「僕は今日、絶対に契約を取りまーす!!!」

時刻は朝7時。散歩中のおばあちゃんが、怪訝そうな顔でこちらを見ていました。

なぜこんな状況になっているのか。

新卒で入ったのは不動産の会社。

僕は不真面目な就活生でした。やりたいことなんてとくになかった。中学生のころからサッカーが好きだったので「Jリーグのチームのスポンサーをしてるし、給料もよさそう」という不純な動機で、その会社を選びました。

配属は営業。大学ではバーテンダーのアルバイトをしていたから「俺は話すのがうまいはず」みたいな謎の自信があって。実際、入社してすぐにたまたま1件契約をとれたんです。

いま思うと、それがよくなかった。

それ以降、僕はまったく契約をとることができませんでした。

営業成績は、60人ほどの社員のなかでワースト4位。壁に貼り出された成績表を見るたびにキツかったです。上司からは「赤字社員」と呼ばれ、「お前、やる気ないなら辞めろ」と毎日のように詰められていました。

あまりに成果が出ないので、見かねた上司が「明日の朝7時、井の頭公園集合な」とぼくを呼び出して。気合を入れるために、ステージで叫ばされていたというわけです。

あれから20年が経ちました。

僕はいまも、懲りずにサラリーマンをしています。

ただ、あのころと違うのは「サラリーマン社長」になったこと。

昨年の4月から、デジタルホールディングス傘下の「バンカブル」という会社の社長をしています。つくっているのは「広告費を分割・後払いで支払える」という、これまで世の中になかった新しいサービスです。

親会社から数十億円もの出資を受けて、たくさんの金融機関や関係会社に協力してもらいながら、人生をかけてこの事業を広めようとしています。

今日に至るまで、いろんな大変なことや、理不尽なこともありました。それでも、なぜ会社員として働き続けて、いま社長をしているのか?

改めて、これまでの道のりを振り返ってみたいと思います。

どこにでもいる、ふつうのおじさんの半生かもしれません。でも、読んでくれた方がご自身の仕事に誇りをもってくれたり、キャリアのヒントみたいなものを見出してくれたりしたら、とてもうれしいです。

誰にも頼っちゃいけないと思っていた

1年目の僕が、まったく契約をとれなかった理由。

それは「自分ひとりでなんとかしなきゃいけない」と思い込んでいたことでした。人の意見を聞いてなかった。「俺は大丈夫だ、やれる」と。周りの人の言葉や助け舟に、意地になって向きあえなかったんです。

この性格は、高校1年生のときに親が離婚して、父がいなくなったことがきっかけでした。

当時は自覚がなかったけれど「これからはもう誰にも頼らない。自分のことは自分でやるんだ」と強く思っていたんです。だから就職先や仕事のことも、親にはまったく相談しませんでした。

でも、まったく成果が出ないまま約1年が経って。さすがに「もう、自分だけじゃたぶんダメだ」と思いはじめました。

それで2年目の直前ぐらいからやっと、先輩のアドバイスを聞くようになりました。心から素直になれたわけじゃないけど、藁にもすがる思いでした。

言われた通りにやったら、少しずつお客さんに話を聞いていただけたり、ご契約いただけることが増えてきました。成績もけっこうよくなってきて。

そして、2年間の営業職を経て、3年目からマーケティング部に異動することになったんです。

異動はうれしかったです。広告やマーケティングの世界はなんとなくカッコよく見えて、憧れていたので。初めてこの世界に片足をつっこんだ瞬間でした。

スタートアップの立ち上げメンバーに

そんなとき、ある転機が訪れます。

当時、会社は大きな変革期でした。社内で変革プロジェクトが立ち上がり、外部のコンサル会社もアサインされていました。

僕をマーケティング部に異動させたのは、変革プロジェクトのリーダーだった人です。マーケティング部のデスクは、営業部の隣。どんなに怒られても辞めずにいた僕を、彼は気にかけてくれていたんです。

しばらくして、彼が当時の会社のNo.2と一緒に、会社を立ち上げることになって。

それで「おまえ、一緒に来ないか?」と誘ってくれたのです。

26歳で、スタートアップの立ち上げメンバーとして参加させてもらえる。こんなの、なかなかできない経験なんじゃないかと思いました。

そうして、できたてのスタートアップに転職することになりました。

会社のメインの事業は「リノベーション」です。

古いマンションを一部屋、業者から買い取ってきて、中をきれいにリデザインして。それを投資物件として販売するんです。

入居者によろこばれる物件にして、人気が出ればオーナーさんもうれしい。「俺たちはそういう、みんなが幸せになる仕事をするんだ。世の中の不動産の価値を再定義するんだ!」と熱く話していました。

僕の担当は、広告・マーケティング活動全般。

雑誌に掲載したり、PRやメルマガを打ってみたり、オウンドメディアを運営したり。ホームページや会社のロゴすらなかったので、それをつくるところからはじめました。

広告だけでなく、サービスの価格を決めるためのリサーチをしたり、手が空いたら営業もやったり……とにかくなんでもやりました。

当時の経営陣は、よく近くのドトールの地下で役員会議をしていて。メンバーとの距離もすごく近くて、どんどんやることが決まっていく。それがとても刺激的でした。

「意味わからないから、もうしゃべらないで」

僕はこの会社でも大きな挫折を味わいました。

それまでの仕事は、正直なところ、気合と根性だけでなんとかなっていたんです。でも、人数の少ない立ち上げ期の会社では、そうはいきませんでした。

マーケティング担当なのに、マーケティングの知識なんて全然ない。

企画書も書けない、パソコンもうまく使えない、言葉遣いもだめ。ロジカルでもないし、ものごとを構造的に考えられない。優先順位がつけられない。もう全部だめ。

僕を誘ってくれた上司に、毎日ボコボコに論破されていました。

「おまえの言ってることは意味がわからないから、もうしゃべんないで」と言われたこともありました。

僕は焦りました。彼に立ち向かおうにも、ロジカルさでは絶対に勝てないし、知識もないし、そもそも話を伝えられない。

「もう本を読むしかない」と思って書店へ行きました。どの本を買っていいかもわからなかったけれど、マーケティングっぽい本を何冊か買って。その通りやってみるんだけど、失敗して。本の通りにやっても成功しないんですよね。

何度も上司に突っぱねられて、そのたびに改善して、仕事を覚えていきました。

広告費の重さを知った

広告担当として働くなかで実感したことがあります。

それは、自分たちのようなスタートアップにとって「広告費」がどれだけ重たいものなのか、ということ。

当時ぼくらが出していたのは、30万円〜50万円ぐらいの広告です。大きい代理店はとりあってくれなかったので、ライフスタイルに特化した雑誌社の代理店と、メインでお付き合いしていました。

代理店さんからは、日々いろんな提案をいただきます。なかには5万円の案件なんかもある。

でも「まあ5万円ぐらいならやるか」とは、まったく思わないんです。

「それを出したらどういう成果が見込めるのか?」「本当にそのお金を使う意味があるのか?」、それを考え抜いて、上司に提案して、会社からOKが出てはじめて発注できる。1000万とか1億とかじゃなくて、5万円の案件でも、当たり前にそこまでやり切らないといけない。

それぐらい、スタートアップにとっての「1円」は重いのです。

僕は当時、会社のキャッシュフローを見ていたわけではありません。でも、経営はけっこう大変だったと思います。リノベーション事業には、かなりの初期投資がかかります。物件はボンボンできて売れるわけではない。

それでも会社を立ち上げてから、給料は一度も途絶えていませんでした。

信頼する上司が、資金繰りの大変ななかで、自分に給料を払ってくれている。それを実感していたから、お金の重みはすごく感じました。

先輩の言葉を振り切って、転職

その会社から転職しようと思ったのは、2年半が経ったときでした。

「もっと厳しいところに身を置いて、自分の能力を高めてみたい」という思いが、ふつふつと湧いてきたんです。

仕事の性質上、優秀な外部の方と接する機会も多くて。いろんなプランナーさんやライターさん、少数精鋭のコンサル会社、代理店……。そういう人たちに、もっとまみれてみたい。

この会社から飛び出してみたい、と思ったんです。

上司にそう伝えると「はあ? ふざけんな、おまえ。死ね」って言われました(笑)。本当にそう言われましたね。「ためだよ、許さないよ。おまえはここでやるんだ」って。

何回も飲みにいって、毎回怒られて。それでもぼくの意思が変わらないので「もう知らない。おまえとは二度と喋んない」と言われて、やっと許してもらえました。

他部署のストーカーをしてウザがられていた

転職先は、広告代理店のオプト(現デジタルホールディングス子会社)でした。

オプトを選んだのは、デジタルの広告やマーケティングについて学びたかったから。あと、クセの強い面接官が多くておもしろそうだったんです。

僕は相変わらず、明確なやりたいことはありませんでした。目の前のことに精一杯で、未来のビジョンなんて考える余裕もなかった。

ただ、入社するとき、ひとつだけ決めていたことがあります。

それは「誰よりもやり切る」ということ。

立派な夢や目標なんてない。でもだからこそ、とにかく人一倍やりきろうと思ったんです。

で、なにをしたかというと、営業の「ストーカー」でした。

僕はメディアプランニングの部署に入ったので、営業部は完全に別部署です。

それなのに、営業部の社内カレンダーを勝手に見ては「このクライアントの所に行く予定ありますよね! ちょっとこの提案もっていきたいので、一緒に行っていいですか?」と突撃して、ついて行っていました。

それから毎日、営業部で勝手に「朝会」を開いていました。営業部長もサポートしてくれて。十数人の営業マンを巻き込んで、お客さんの状況をすべて聞いて把握していたんです。

最終的には、営業のところに自分の席も置かせてもらっていました。なんの権限もないイチ中途メンバーが、営業部長の前にずっと座っている。ちょっと異常な状態です。

営業からはウザがられていたと思います。「なんで俺の予定知ってるんだ」とか「なんでクライアントから何も言われてないのについてくるんだ」とか、絶対あったと思います。

でも、僕は「営業が持って帰ってくるお客さまの声って、本当にお客さんの声なのかな?」と疑問に思っていたんです。

営業はAと言っているけど、実はお客さんはBがやりたいかもしれない。営業がどんなに優秀でも、直接聞かなければ、お客さんのほんとうの声はわからない。

前職では広告を発注する「お客さん側」だったから、より強くそう思ったんです。

知らない部署に突撃するなんて、最初はためらいました。でも「お客さんによろこんでいただければ、結果的に営業の信頼も勝ちとれるはずだ」と信じていたんです。

会社としても「やりたいと思うことはやってみなさい」と、チャレンジを推奨する文化がありました。営業部長からOKをもらえたのもありがたかったです。

とにかくがむしゃらに「もうやれない」と思えるまでやり続けて。

結果的に、転職して1年半後にはチームリーダーになり、その1年半後には部長になり、さらに1年半後には、グループ内の会社の取締役になっていました。

「離職率40%」の子会社の社長に

取締役になったのは、2011年にオプトグループが買収したベンチャー企業でした。社長含めて18名くらいの組織規模です。

最初は、とても順調に会社を伸ばすことができていたんです。採用にも力を入れて、社員も30人を超えるぐらいになりました。

ところが、ぼくが取締役になってから2年後。当時の社長がとつぜん「辞める」と言い出したのです。

いろいろ事情があったのですが、正直「いやいやいや!?」という感じでした。順調に飛行機が飛んでいると思っていたのに、とつぜん機長がパラシュートを持って飛び降りてしまった感じです。

このまま墜落させるわけにはいかない。もう自分がハンドルを握る以外に、選択肢はありませんでした。

そうして、そのまま社長をやることになりました。

不安もありましたが、なったからには腹をくくるつもりでした。「前の社長のよさは引き継ぎつつ、彼ができなかったことをやろう」と。

そんな矢先、社員が次々に辞めていってしまったんです。

その社長と社員のつながりは、とても強いものでした。特に新卒からいるメンバーにとって、社長は「初めての上司」であり「人生の大先輩」でしたから。

だから社長が辞めた途端に、もう会社にいる意味がなくなってしまった人も多かったんです。「社長が辞めるなら僕も辞めます」と。業績は伸びていたのですが、それだけではどうにも引き止められませんでした。

社内の空気も、だんだん悪くなっていきました。

採用もうまくいきませんでした。事業は伸びていたのに人が辞めてしまったので、とにかく人が足りません。それで焦って採用してしまって、中途のメンバーが定着せず、すぐに退職してしまったりして。

人は増えて、事業も伸びている。でも、社内の雰囲気は最悪。どこかで誰かが誰かの陰口を言っている。そんな状態です。

気づけば、離職率は半年で40%にものぼっていました。

毎朝ドアの前で深呼吸しないと、オフィスに入れなかった

正直、戸惑いました。自分の辞書にはない現象ばかり起こっていたからです。

なんで本気で仕事をしないのか。陰口なんか言っても、なにも解決しないし、楽しくないのに……。言葉も文化も違う、異世界の人に囲まれているような感覚でした。

人生で初めて「オフィスに入るのがキツい」と思いました。

カードをピッとかざして入るタイプのドアだったのですが、出社しても、なかなかカードをかざせない。いったん立ち止まって、大きく深呼吸して「よしっ」と気合を入れてから、毎朝ドアを開けていました。

寝れなくなったのも初めてでした。自分は心の強いほうだと思っていたので、驚きました。「俺も寝れなくなったりするんだ。寝れないってこういうことなんだな……」と。

それでも、なんとか会社を立て直さないといけません。

まずは改革の中心になってくれるメンバーを募りました。ぼく自身も、コーチングをつけて自分と向き合うことにしました。

それから、会社名も新しくして、ミッションやビジョンもみんなで新しくつくりました。事業内容も刷新して、マネジメントの方法も変えました。

結果的に、立て直したというか「つくり直した」ぐらいの変わりようだったと思います。

なかでも力を入れたのは「採用」です。

「ぼくらが本当に一緒に働きたい人ってどんな人なんだろう?」というのを、徹底的に話し合って言葉にして。それに合う人だけを採るようにしました。

最初は、おなじ想いをもったメンバーが大多数とは言い切れませんでした。徐々に徐々に、みんながおなじ方向を向けるようになっていって。

そうやって1、2年かけて、なんとかいい空気を取り戻していったんです。

7年半経営してきた会社をクローズ

会社が復活できたのは、一緒に立ち上がってくれたメンバーがいたからです。

どんどん人が辞めていくなかでも、残り続けて寄り添ってくれた。「高瀬さん、まちがってないです」と言ってくれた。あるメンバーには「ちょっと悩み聞いてもらっていい?」と言って、よく近くのカフェで話していました。本当に救われました。

新しく展開した事業も軌道に乗って、順調に利益が出ていきました。

ところが、社長になってから7年半が経ったころ。

グループの戦略方針に沿う形で、この会社をクローズしないといけなくなってしまったんです。

ブラックな会社でも、行ってよかったと思う

……ここまで改めて振り返ってみると、ある意味「理不尽」なこともたくさんあったなあと思います。

若いころは上司に怒られまくって。取締役になったと思ったら、社員がどんどん辞めてしまって。やっと立て直したと思ったら、会社を解散せざるを得なくなって。

でも不思議と、後悔していることは一切ないんです。

それは、ぼくがこういう考え方をする人間だからです。

「過去は変えられる」。

1社目の会社はたしかにブラックでした。それでもいまは「あの会社に行ってよかったな」と思っています。

当時、上司から「お前、いま契約出してないだろう。じゃあ、いますぐ時計買ってこい」と言われたことがありました。

……意味がわからないですよね。

「どういうことですか?」
「いま、お金持ってんのか、お前?」
「いや、持ってないです」
「だったら、早く契約出せよーっ!!」

要は「まず借金して時計を買って、契約とってインセンティブで返せ」というわけです。

それは絶対に誇れることじゃないし、よくない話です。決して、ブラックな働き方を容認するわけではありません。自分の会社をそんなふうにしたいとも思わない。

ただ、そのとき買った時計は、いまでも大切に持っているんです。

30万くらいの、オメガのシーマスター。23才のぼくにとってはかなり高級でした。冠婚葬祭や、オフィシャルな場に行くときに身に着けています。

その時計を見るたび、初心を思い出して背筋が伸びるんです。

当時は大変でしたし、つらくなかったと言ったら嘘になります。でも、こうして振り返って糧にすることで「あの経験も、決して無駄じゃなかったな」って思えるんです。

起こってしまった過去は、もう変えられないかもしれません。

でも「過去の経験が自分にとっていいものだったか、悪いものだったか?」は、その先の未来でいくらでも変えられる。

他人や環境なんかじゃなく「未来の自分」が決められると思うんです。

厳しい上司だったけど好きだった

2社目のスタートアップでの日々もそうです。

当時は転職して逃げ場がない状況で、ひたすら上司に叱られて。休みもほとんどなくて、休日も仕事をしていました。「めちゃくちゃしんどそうですね」とよく言われます。

でも、自分としてはむしろ、むちゃくちゃ楽しかったんです。

僕は当時の上司のことが好きでした。

たしかに厳しかったのですが、彼からぼくの「人格」を否定されたことはありませんでした。仕事としてやるべき事について、強めのストレートでフィードバックをもらっていただけ。

むしろ彼は、仕事ができないぼくを、決して見捨てずに向き合ってくれたんです。

彼は忙しい合間をぬって、エクセルでぼくのすべてのタスクを洗い出してくれました。「あのメールは送ったか」レベルに細かく。そして、夜中だろうがすぐにチェックを戻してくれるんです。

13人しかいない会社の、貴重な役員だったにも関わらず。

正直、当時は「面倒くさいな」「細かいな」と思っていました。でもいまは「あんなに仕事ができないやつに、よく諦めずに向き合ってくれたなあ」と思います。

会社を出るときは散々怒られました。それでも、いまだに付き合いがある恩人です。

たくさん怒られたけど、その倍ぐらい、楽しい経験が多かったんです。

怒られながらも、それを改善して成長していく感覚が楽しかった。知らないことだらけの毎日に、とてもワクワクしていました。

この会社を辞めるとき、ぼくはみんなの前であいさつをしました。

「この会社を卒業する人間が、外で成功するって証明してくるんで、よろしくお願いします!」って、ものすごい息巻いたことを言って。

退職してからも3年に1回、社長に連絡して、会社を訪問させてもらっていました。「卒業してから○年経った僕を、プレゼンさせてください」と。

「いまこういうことをやってます。こんなことを学びました。そんなぼくが思うに、この会社は、こうしたほうがいいと思います」と、生意気に提案までさせてもらって。

身勝手だった僕を送り出してくれて、いまも受け入れてくれる、大切な場所なんです。

「ぼくにどうして欲しいんですか?」

7年半経営してきた子会社をクローズすることになったとき、最初はやっぱり「ここまでやってきたのに、なんでだよ!」という気持ちになりました。

でも「もう会社にはついていけないから、独立しよう」「ひとりでもっと好き勝手やろう」とは、まったく思いませんでした。

会社の解散が決まってから、僕はグループのCEOと話しました。それで「高瀬、これからどうしたい?」と聞かれたんです。

自由にチャレンジする機会を与えてくれたのだと思います。

とてもありがたく感じた反面、僕は「ずるい」とも思ったのです。

「自分のやりたいことでいいのなら、言います」

「でも、おこがましいのですが、僕という人間をどこに置いたら、このグループはもっとよくなると思いますか?」

「もっと大きい地図がありますよね? それを踏まえたときの最適配置はなんですか?」「『お前、どうしたい?』というけれど、あなたは僕にどうしてほしいんですか?」

……って。いま考えると、とてつもなく失礼ですね。汗

独立しようと思わなかった理由

あのタイミングで独立していたら、もっと自由に好き勝手やれたのかもしれません。でも、僕は「雇われ社長」であることは、むしろポジティブな事だと思っているんです。

創業のオーナー経営者のことは本当に尊敬します。ひとりでリスクを背負って、ゼロから大変な思いをして立ち上げて、背水の陣で経営されている。

でも、自分はそうじゃない。

「お前は本当の経営者とは違うんだよ」「本当に自己資金でやったときの大変さはわかってないよね」と言われたこともあるし、自覚もあります。

一方で、ゼロから起業していきなり「いますぐ〇〇億円使いたい」と思っても使えません。僕にはそのチャンスがある。優秀な人材も、社内外から集めやすい。それはものすごく大きなメリットです。

いい事業を、早く世の中に広めるための武器がたくさんある。

たしかに完全に自由ではないけど、そのぶん、親会社のリソースをフルに使える。それが「雇われ社長」の強みだなと思うんです。

広告代理店にしかできない金融サービス

後日、CEOから「こういう話があるんだけど……」と提示されたのが、いまのバンカブルという会社の事業構想でした。

広告代理店が「金融」の領域で事業をやる。既存の金融機関ではできないことをやるんだ、と。

ふつう、銀行などの金融機関では「広告費」を単体で借りることができません。広告は、車や家と違って、貸し倒れたら回収できる「担保価値」がないから。お金を貸すには、リスクが高すぎるとされているんです。

だから「いま広告を出せば絶対に事業が伸びるのに、キャッシュが足りなくて出せない」という会社さんはたくさんあります。それこそ、ぼくの2社目のスタートアップもそうでした。

それを可能にするのがうちのサービスです。

広告費を前借りして、分割で後払いすることができる。

これが可能な理由のひとつは、グループで培ってきた「広告の売上リターン予測」のノウハウがあるからです。

「この広告を出せば、いくらの売上が見込めるか?」をある程度正確に予測できる。つまり、担保がなくても、貸し倒れのリスクを抑えることができるわけです。

大企業のリソースとノウハウをフルに使って、世の中の課題を解決する。

2兆円のネット広告市場に、革命を起こす。

これは自分にとってすごく理想的だし、ワクワクしました。これこそが自分の「やるべきこと」なんじゃないか、と。

それで、法人化にあたっての社長という役割を任せていただくことになったんです。

やりたいことがなくても、未来は変えられる

ことあるごとに「夢を持て」「目標を持て」と言われる世の中です。

いま明確な「やりたいこと」がないことに、コンプレックスを感じている人もいるかもしれません。

たしかに、実現したい未来のために信念をもって進める人はすごいし、憧れます。ただ、それは単なる「特性」の1つにすぎないと思うんです。

目の前のことに向き合い、着実に結果を積み上げていく方法でも、大きな未来をつくることはできる。

僕はそう思っています。

自分がやりたいことではなく、自分が「やるべきこと」にベストを尽くす。

それが、いまの僕の「やりたいこと」なんです。

いまは、広告業界から「金融」というまったく関わってこなかった世界に飛び込んで、毎日、刺激的なことだらけです。

知らない常識や、業界ならではのお作法もあります。お客さまからのうれしい反響はいただいているものの、この先、事業が本当にうまくいくという確証もありません。

それでも「いま、自分は正しいことをしている」と心から信じられます。

大きな夢を掲げるタイプではないし、理不尽なことだってある。それでも愚直に、目の前の仕事に本気で向き合っていく。

そして、いつかくる引退の日に、みんなから本気で惜しまれるほど、大きな価値を残すことができたら。

僕の社会人生活は、きっと悔いのないものになると信じているんです。

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