社会的なるもの・Qアノン的価値観・化石(ChatGPTと教育)
社会的なるもの
ブルーノ・ラトゥールは、「社会」なるものを検討するにあたって、「社会」societyではなく、「社会的なるもの」the socialとして扱った。
「社会」と名指せば、それぞれが思い描く「社会なる実体」に引きずられるし、そもそも社会学の既存概念を問い直すことにつながらない。したがって、「社会的なるもの」というセッティングは学問的なアプローチとしてとても適切だった。
(ラトゥールについては、こちらの方が非常に詳しく追っているので、参考にされたい)
そこで問われてくるのは、そもそも鍵括弧に入れること自体、それってどういうことなの?というものだ。既存概念の焼き直しを嫌がったり、問い返す際に、いったん鍵括弧に入れる作業は、いわば常識を見直すみたいな作業なので面白いことこのうえない。
しかし、「社会なる実体」のようなものが迫り、襲い掛かってくる圧力は、そんな鍵括弧をいとも簡単に外してしまう。目の前にある「現実」を肯定し、それを希求する人びとの欲求というのは、生易しいものではない。仮に「虚構のハリボテ」だとしても、現実世界を構成する諸原理を否定することは、それこそ命懸けの飛躍が必要となる。
話が飛躍するようではあるが、赤い紙が家に届いて、
「いや、おれ行きたくないし。行くの断るわ、今回」
とか
「みんな右手を斜めに上げながら、ペナペナの詐欺師っぽいけど、アジテーションとオルグの上手なひげちょびんのおじさんの名前を呼ぶのは、おれしたくないから、とりあえずしないね」
といったことは、いざそうした現実状況に布置されると、一介の市民としては抗いがたいものがある。
抗うのであれば、それこそ命懸けの戦いが待っているわけである。
Qアノン的価値観
今日、そうしたいわば支配的な時代の精神を体現しているのではないかと思われるうちの一つは、《Qアノン》である。わたしは、あまり詳しくないが、要するに陰謀論大好きグループである。
「実は、《世界》は影の政府が支配している」
「実は、世界経済はユダヤ人に支配されていた」
「実は、CIA?は《宇宙人》をずいぶん前に捕獲していて、円盤状の飛行体についていろいろ調べて、技術を取り入れています」
まあなんでもありではある。
わたしの見立ては二つだ。
一つは、いわゆる「後出しジャンケン」という特徴がある。
ジャンケンは、先出しでは不利、同時出しはたぶんイコールコンディション、後出しは必ず勝つことができる。後から「実は」といえば、有利な勝勢に位置して物事や議論を進められる。「勝つことが宿命づけられた」当世では、卵が先か鶏が先かはわからないが、人口に膾炙するに決まっているわけである。
もう一つは、本質主義との親和性が高い。
「古来、《人間》は、洞窟に住んでいたころから、《男》は猪を狩りに外へ出かけ、《女》は洞窟のなかで子供を育て、家事に勤しむ」といった類の本質主義とclose to youなのである。
このごろ、都にはやるものでいえば、例えば「スゴイぞニッポン」文脈は、本質主義的な考え方や価値観にぴたりと寄り添っている。
「古来、日本は神の国であり、… …」
「高度経済成長を経て、日本は経済的にも科学技術的にも、世界の《一等国》となり、日出ずる国としての栄華を極めたのであって、《ニッキョウソ》的あるいは《ジー・エイチ・キュー》的自虐史観からは離脱せねばならない」
うんぬん。
化石(ChatGPTと教育)
ChatGPTと教育をめぐっても、喧しいことが叫ばれている。
ChatGPTに関して
子息4人をすべて東大理Ⅲに入学させたスーパーお母さん
堀江氏
まあくだらないといえば、くだらない。
しかし、ここに見られる「社会実体論」的視角、鍵括弧を外そうとする確固たる意思、本質主義的で化石的価値観とそれに抗う考え方とは、真っ向勝負の位置関係となっている。
また、ひろゆき氏のDNA発言にみられるように、両者は互いに錯綜し、入り混じっている。つまり、単純に二分できない複雑さや詮無い要素を孕んでいる。
(これは右派と左派という素朴な二文法とも通底しているかもしれない)
さて、どちらが強く、どちらが勝つのか?やはり、勝敗に帰着しそうだし、「勝つことが宿命づけられた」エピステーメーと対峙する現実世界の厳しさに再び帰着しそうでもある(笑)
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